赤犬のガロ(後編)
作戦は、夜明け前に始まった。
「言い出しっぺが司令官」の家訓により、絵図は私が引いた。
第一手、母さんとノエルが東の小屋へ。人質の確保と手当てが最優先。第二手、父さんが正面から、音と光で派手に。手下たちの目と足を、盾一枚に集める。
「殺さないでいいの?」
「うん。あの人たち、たぶんもう、戦意がない」
偵察で見た、怯えた背中。あれは頭目に従う背中じゃない。頭目から逃げられない背中だ。だから派手に壁が来れば、崩れる。
——実際、崩れた。
父さんの大盾が門ごと吹き飛ばして「寝てろぉ!!」と一喝した時点で、手下の半分は武器を捨てた。残りの半分は逃げ出して、涸れ谷の出口で母さんに「あら、おはよう」と出迎えられた。人質は二人とも生きていた。痩せて、怪我をして、でも生きていた。ノエルの光が、夜明け前の小屋を真昼にした。
ここまで、ほぼ絵図の通り。
絵図の外にいたのは——頭目、ただ一人だった。
*
赤犬のガロは、中庭の真ん中に、独りで立っていた。
逃げた手下を、見もしなかった。武器も、構えていなかった。ただ、胸元を左手で押さえて、立っていた。その指の隙間から、黒いものが覗いていた。
石が——《《胸に、埋まりかけていた》》。
「……返せって、言うんだろ」
ガロの声は、静かだった。
「みんな、そうだ。副長も、手下も、あんたらも。返せ、戻せ、やめろ。……うるせえんだよ。俺はまだ、《《足りてねえ》》んだ」
父さんが盾を構え直した。「来るぞ」の合図より、早かった。
ガロの踏み込みが、地面を割った。
痩せた中年の体が、岩鎧猪より重い一撃を叩き込む。父さんの大盾が、鐘の音を上げて——《《半歩、押された》》。私は自分の目を疑った。「山裂き」の大熊でも動かせなかった、あの盾が。
「ぬ、うぅ……!」
「あら、効いてない」
母さんの崩しが、横から膝裏に入る。完璧な一撃。巨躯なら泳ぐ。人なら倒れる。——ガロは、倒れなかった。膝が変な角度に折れたまま、《《立っていた》》。痛みという概念が、あの体から抜け落ちている。
「足りねえ、足りねえ、足りねえ……!」
これは、だめだ。
戦いながら分かった。あの体はもう、とっくに限界を超えている。石が支えて、石が動かしている。手足を射抜いても止まらない。止めるには心臓を——《《人を、射る》》しかない。
……本当に?
私は稜線の上で、弓を引いたまま、ガロを見た。胸元の黒い石を見た。四年前の坑道を思い出した。両親の強張った顔と、囁きの届かない、私だけの静寂を。
あの男は、敵じゃない。
《《あの石が、敵だ》》。
「父さん! 母さん! 三秒、正面に留めて!!」
「「——応!!」」
的を、変える。心臓じゃない。心臓の上に張り付いた、拳半分の黒。深く埋まる前の、あの石。人から、渇望を、引き剥がす。
——世界から、音が引いていく。
鐘の音。地響き。「足りねえ」の叫び。夜明けの風。ぜんぶ潮のように引いて、あとには弓と、矢と、暴れる男の胸の、一点の黒だけが残る。
外せば、心臓。
——外さない、じゃない。
外す射を、しないだけだ。呼吸を殺す。夜明けの光が、谷に差し込む角度を待つ。父さんの盾がガロを正面に固定し、母さんの崩しが動きの拍子を作る。石が、朝日を吸って、そこだけ真っ黒な穴になる。
会。
『欲を手放した射だけが、まっすぐ飛ぶ』
——離れ。
弦音。
黒い石が、男の胸から、《《弾け飛んだ》》。
*
使った矢は、一本きり。それで、終わった。
ガロは、糸の切れた人形みたいに、崩れ落ちた。
駆け寄ったときには、もう分かった。手遅れだった。石に支えられていた体は、半年ぶんの無理を、一度に返済させられていた。
「ノエル、だめ、これは——」
「《《診ます》》」
ノエルは、討伐対象の傍らに膝をついた。一切、迷わなかった。両手の光がガロの胸を包む。光は、注がれて、注がれて——途中で、行き場をなくしたように揺れた。
「……穴が」ノエルの声が、震えた。「体の中に、穴が空いてるみたいに……注いでも、注いでも、届かない……!」
渇望に食われた場所は、治癒では埋まらない。
ガロの目が、薄く開いた。濁りが、少しだけ晴れていた。石が離れて、最後の最後、あの男は「お頭だったもの」から、お頭に戻ったのだと思う。
「……嬢、ちゃんら……手下どもは」
「投降しました。全員、生きています」
「……そうか。そりゃ、良かった……」
ガロは、掠れた声で笑った。
「なあ。俺は、よ……あいつらに、腹いっぱい、食わせたかった……だけなんだ。最初は、それだけ、だったんだ。それが、どこで、こんな……」
言葉が、途切れて。
最期に、こう言った。
「——《《もっと、欲しかった、だけだ》》」
それきり、だった。
夜明けの中庭は、静かだった。ノエルの光だけが、まだ主のいない胸の上で、しばらく揺れていた。
——そして、それは起きた。
ノエルの手からこぼれた光の端が、地面に転がった黒い石に、ふれた。
じゅ、と。
焼けた鉄に水を落としたような音がして——石が、《《悲鳴を上げた》》。
私には、聞こえない。でも、石のいちばん近くにいたノエルが「ひっ」と小さく仰け反り、父さんと母さんが同時に耳を押さえたから、分かった。三人には、聞こえている。黒曜石の黒が、端から、白く、濁っていく。脈打っていた何かが、白の中で、動かなくなった。
「い、今の、叫び……え? 私、何か、しました……?」
誰も、答えられなかった。
*
教会の回収班は、三日後に来た。
白く濁った石を検分した神官は、長いこと沈黙して、それから独り言のように呟いた。
「————死んでいる」
石が、死ぬ。そういう言い方を、教会はするらしい。
質問はいつも通りだった。触れたか。いいえ。声を聞いたか。父さんと母さんは、はい。ノエルも、最後の叫びだけ、はい。
四人のうち、三人が聞いている。私だけが——
「聞こえませんでした」
神官は帳面を繰った。四年前の記録と、照合する手つきだった。私の顔を見て、名前の綴りを確かめて、何かを長く書いた。二度目の記録。
そして、ノエルの浄化のことは。
「石は、戦闘の最中に白くなっていました。以上です」
父さんが、そう報告した。嘘は言っていない。ぜんぶは、言っていないだけだ。前夜の家族会議は、短かった。母さんの一言で決まった。——「教会は、ノエルを『財産』と呼んだ人たちよ。《《新しい値札の理由を、くれてやる必要はないわ》》」
*
その夜の焚き火は、静かだった。
ガロの最期の言葉が、たぶん全員の耳に残っていた。もっと、欲しかっただけだ。手下に飯を食わせたかっただけの男の、最後の言葉としては、あんまりだった。
「……昔ね」
母さんが、火を見たまま、ぽつりと言った。
「同業者に、いたの。ああなった人が。……あの人も、最後は同じことを言ったわ。『足りない』って。守りたいものが、いちばん多い人だったのに」
それ以上は、続けなかった。父さんが黙って、母さんの杯に酒を注いだ。
重い夜に、なるはずだった。
「——よし」
母さんが、杯を干して、立ち上がった。そしていつもの調子で、きっぱりと宣言した。
「《《温泉に、行きましょう》》」
「……え?」
「ここから北に二日。いい湯治場があるの。傷と、心の垢は、湯で流す。——ヤマトの家訓よ」
ノエルの顔が、ぱっ、と上がった。
「お、温泉! 私、初めてです!」
「あら、いいわね。背中、流してもらいなさい。——リノに」
「なんで私!?」
重い夜は、母さんの一声で、あっけなく解散になった。……この人の、こういうところに、家族全員が救われている。多分、本人がいちばん分かっててやっている。
(第十七話・了)
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