世界の見せ方
私たちは残り火に薪を一本だけ足して、寝袋のまま、声を潜めて向かい合った。
夜のお喋りには、夜の速度がある。昼間なら照れて言えないことが、火の粉と一緒に、ぽつぽつと口から出ていく。
「リノさんは、いつから旅を?」
「生まれたときから」
「またまた」
「本当に生まれたときから。なにせ産声で狼の群れを呼んだらしいから。産まれて三十秒で初戦闘」
「ふふっ……な、なんですかその家……ふ、ふふふ」
ノエルは寝袋の中で必死に笑いを噛み殺した。肩が震えて、目尻に涙が浮いていた。人の壮絶な出生を笑うんじゃない。いや、笑っていいけど。その顔が見たくて話した節はある。
「じゃあ、次はノエルの番」
「私の、ですか? 私の話は、その……狭いですよ?」
「狭くていいよ」
ノエルは少し黙って、それから、寝袋の中から古びた祈祷書を取り出した。表紙の擦り切れた、小さな本。開いたページの余白に、細かい文字がびっしりと書き込まれていた。
「孤児院の私の寝床はね、窓のいちばん遠い隅だったんです。それでも、朝のお祈りの席からだけは、窓が見えて。……四角く切り取られた空が、私の世界の、ぜんぶでした」
だから、とノエルは余白を指でなぞった。
「逃げた日から、書いてるんです。《《見たいものリスト》》。……祈祷書の余白なんかに書いて、罰当たりですけど」
「見せて」
覗き込むと、余白の文字は、リストというより、願いごとの行列だった。
——海。
——雪の原(音が消えるというのは本当か)。
——砂漠の夜(星が落ちてくるように見えるらしい)。
——大瀑布(虹が三本かかる日がある)。
「海はね、本当にしょっぱいよ。しかも、べたべたする」
「べたべた!」
「雪も本当。積もった朝は、世界から音がなくなる。……あれはちょっと、弓を構えたときに似てる。世界がまるごと射場になったみたいで、私は好き」
「〜〜っ、いいなあ……! いいなあ、旅の人……!」
ノエルは寝袋の中で足をばたばたさせた。それから、リストの下の方を、少しためらってから見せた。
——ヤマトの桜(春に、花の吹雪が降る木があるという)。
「あ。それ」
「し、知ってるんですか?」
「うちの母さんの故郷。……ヤマトは、母さんの生まれた国だよ」
ノエルの目が、まん丸になった。それはもう、見事なまん丸だった。
「じゃ、じゃあ、カグラさんに聞けば、桜の場所も」
「聞けるどころか、いつか家族の旅程に入る気がする。母さん、たまにすごく遠い目で東を見てるから」
「……いいんでしょうか。私、その旅にいて」
ぽろっと、こぼれた声だった。
ノエルはすぐに「今のなし」みたいに笑おうとして、失敗した。何しろこの子は、顔に全部書いてあるのだ。
法の上では、もう自由の身。それでも——あの司祭の、綺麗すぎた引き際。ニナさんの言った「上に投げたのよ」。教会は諦めたわけじゃない、ただ静かになっただけだと、教会で育ったこの子がいちばんよく分かっている。この旅はいつまで続けられるのか。リストの願いは、いくつ叶うのか。——そういう不安が、ぜんぶ。
だから私は、寝袋から腕を出して、祈祷書の余白を、こつん、と指で叩いた。
「ノエル。このリスト、ぜんぶ回ろう」
「……でも」
「海も、雪も、砂漠も、滝も、桜も。教会がなんと言おうと、手配が何年続こうと——《《世界中、連れてってあげる》》」
言ってから、我ながら大きく出たなと思った。でも、撤回する気は微塵もなかった。
「私の矢が、守るから」
ノエルは、しばらく黙っていた。
それから、笑った。
火の残りが爆ぜて、その顔を照らした。出会ってから今日までで——たぶん、いちばん明るい笑顔だった。四角い空しか知らなかった子の顔に、世界中の空が映ったみたいな。
「……はい。約束、です」
ノエルは祈祷書を引き寄せると、リストのいちばん下に、何かを書き足した。小さく、素早く、隠すように。
「なに書いたの?」
「ひ、ひみつです!」
慌てて本を抱え込む。その顔には、例によって、ぜんぶ書いてあった。
……書いてあったけど。
今夜のところは、読まないでおいてあげよう。
「おやすみ、ノエル」
「はい。……おやすみなさい、リノさん」
*
——同じ夜。ここから、ずっと西。
王都の大聖堂、その地下。何重にも錠の下りた禁書庫の、最奥。
祈りの声が、していた。
老いた聖職者が、鉛の函の前で、独り、長い長い祈りを捧げている。五十年、毎夜欠かしたことのない祈りだった。神の声を求めて、応えられたことは、一度もない祈りだった。
その、曲がった背中の向こうで。
鉛の函の中の黒い結晶が——どく、と。
心臓のように、ひとつ、脈を打った。
老人は、祈りを止めて、ゆっくりと顔を上げた。
「…………今、どなたか」
——わたくしを、お呼びになりましたか。
禁書庫に、答える声はまだ、ない。
(第十四話・了/第三章・了)
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