91話「旅人の日記③」
他者を見下し、他者を蔑み、プライドが高く下心丸出しの浅ましい男は、精霊がいると云われているマーヨ・テ・マウーテ岩石群で過ごすうちに、自然の中で心が洗われ、いつしかこの地で迷った果てに死んでいった魂のために祈りを捧ぐようになった──というのは、気のせいだった。一時の気の迷いのようなものだったのだ。マジュは怒りに満ちた形相でユーシャに話し掛けた。
「……ひとまず下劣は精霊の事は諦めたみたいね」
「げれ……? そ、そっか。マジュ、それはそうと俺を睨むな」
マジュの旅人への敵意は何故かユーシャに向いていた。エーダはマジュの心情を察して、ユーシャに訊ねる。
「あのっ、やっぱりユーシャもおっぱいが好きなの?」
「何で俺に聞くの⁉ 男で括るな! 俺を巻き込むな!」
マジュは少し顔を赤らめ、慌てふためくユーシャを問い詰める。
「で? 実際どうなのよ」
「……ノーコメント」
ユーシャは答えなかった。だがしかし、それが答えだった。フアムはユーシャの肩をぽんと叩き、女の子に詰められる少年に声を掛けた。
「私はおっぱい好きだよ」
「え? あ……お、い、いや唐突な告白すな!」
……。小さな少女はフォローする雰囲気を漂わせてトラップを仕込んだ。
あ、俺も俺も──っ! そんな陽気な答えを想像したフアムだったが、王族の少年は巧みな誘導には乗らなかった。ユーシャは流れを断ち切るように声を荒げて脱線した話を戻す。
「マジュ! 下劣が精霊を諦めたって⁉ どういう事だ⁉」
いつの間にか旅人のあだ名が『下劣』で定着した。しかし誰もツッコまない。
荘厳な岩壁にずらっと並んでいた昔の言語で書かれた日記も気づけば終わりを迎えようとしていた。下劣の残した文を、マジュは最後まで読み上げる事にした。
『最奥地にとどまっても、さまようように岩石群をうろついても一向に出会えやしない。もういい。私の前に姿を現さない根暗な分際などこちらから願い下げだ。骸に手を合わすのもそろそろ飽きてきた。迷子になるこいつらがそもそも悪いのだ。こんな土臭くて辛気臭い寂れた場所からさっさと離れる事にしよう。それはさておき、そこらに転がっている迷子どもの骸などどうでもいいが、いつしか習慣になった祈りは捧げておいても損はないだろう。あぁ、神よ──』
──今日こそはここから抜け出せますように──。
「お前も迷子なんじゃねえか‼」
……。日記の中の心境に変化があったと思われる箇所は、結局のところお戯れに近いものだったのだろうか。もしくは、迷路のような岩石群を抜け出そうと試みるも抜け出せないそのさなかで、幾度も目にした旅人の骸に自分の未来を重ねてしまい、藁にもすがる思いで祈ったのかもしれない。日記の最後は願掛けで終わり、この男の末路は誰にもわからなかった。
「結局最後は自力だ自力! 頑張ろうぜみんな‼」
一行は、仕切り直して、マーヨ・テ・マウーテ岩石群最奥地の秘密を解き明かす事にした。
時間を掛けながらもヒントとなり得るものはなかったという肩透かしの結果に、士気を下げさせまいと、ユーシャは自分を含めた場の皆を鼓舞した。
「さて、今回の問題はこちら!」
……。ユーシャは深夜の通販番組さながらのテンションで地面の模様を指差した。様子を察するに、士気を下げさせまいとしているというよりも、頭にちらつく女性陣のセンシティブな問いをかき消そうと躍起になっているようであった。思春期の少年もまた、煩悩まみれである。
「この模様もそうだけど、結局ここはどういう場所なのかしら? 精霊を祀っているのか、それとも呼び出す儀式の場なのかな」
マジュが呟く。一行は初心に帰り、まず、神秘的なこの場がどういう場所なのかという所から考えていた。
マーヨ・テ・マウーテ岩石群の最奥地にやってきてしばらく経つが、遥か昔に力を求めてここへやってきた旅人・ダーハートこと下劣の時と同様に、ユーシャ一行の前にも精霊と呼ばれる存在は未だ姿を現さない。ここまでの旅路を踏まえると、労力的にも骨折り損のくたびれもうけは避けたい所である。それぞれが真剣な眼差しで地面を見つめる。一体、この模様は何を表しているのだろうか。
「──これ、文字じゃない?」
ユーシャ達は一斉に声の主──フアムの方へ振り向いた。少女は、岩壁を見て、もう一度地面の模様を見やり、そして確信したかのように頷いた。
「うん、やっぱり。岩壁に彫られてる字と同じだよ」
「えー? そ、そう、かな?」
フアムの言葉にマジュは小首を傾げる。最奥地の一面に記されたそれは、一つ一つが大きく描かれており、普段目にする文字のサイズではないからか、指摘されてもなお、どこかピンとこなかった。マジュ同様に腑に落ちていないエーダは、少しでも高い所から見ようとぴょんぴょんと飛び跳ねるも、ただ小気味よい運動になっただけであった。ユーシャは高くそびえる岩壁の上方をまじまじと見つめる。
「よっし。本当かどうか、あそこからだったらわかるだろ」
そう言ったユーシャは、広場の中央へ場所を移し、屈伸したり、その場で軽く飛び跳ねた。準備運動が終わったのか、少年は猛烈な勢いで少なくとも三十メートルはあるであろう岩壁目掛けて走り出した。場の皆がぎょっと驚く中、少年は右足で地面を強く蹴って飛び上がった。
高く、高く飛んだ。想像の遥か上をゆく大ジャンプである。だがしかし、強靭な足腰を持つユーシャといえど、大きな影を作る岩壁の頂上にはまるで届きそうもなかった。
失速するユーシャを見てエーダが思わず声を上げようと小さな口を大きく開く。マジュが壁に激突する絵を思い浮かべたその瞬間、ユーシャはそこから左足で岩壁を強く蹴った。更に上へと飛んでいくユーシャはその勢いままに、切り立った崖の凹凸のある岩をがっと掴んで、自身の体を器用に使いこなして壁を駆け上り、平面となっていた岩壁の頂上に平然と着地したのだった。
一部始終を見ていたマジュは目をパチクリさせ、顎が外れたのかと思える程に口をあんぐり開けて呆然としていた。
「え、えぇー……何あいつ……ホントに人間なの……?」
忌憚のない素直な感想だった。確かに少年の超人的な身体能力は、マジュはおろか、その戦闘能力を何度も目にしていたエーダやフアムさえも絶句させるほどに常軌を逸していた。
あまりに信じがたい光景に時が止まっている仲間達の様子などお構いなしに、ユーシャはじっくりと地上に描かれていた模様を眺める。そして、彼の表情は次第に晴れやかになっていった。
「おーっ! 本当だ! 文字だ、何か文章になってる!」
おーい──! ユーシャの声を聞き、エーダ達は我に返る。フアムの指摘した通りだったと、上空からの朗報に地上の三人は表情を明るくさせた。
遥か昔の旅人が何日も何日も頭を悩ませた岩石群最奥地の謎は、実に呆気なく感じるほどに早く解き明かされた。下心丸出しの男が取った行動は、意に沿わずして数百年後の来訪者を手助けした。
ダーハート、もとい、下劣が残したものを足掛かりにしたユーシャ一行は、自然を司る精霊に一歩近づいたのだった。




