109話「トラウマ③」
「焚き火をして……………………暖まろ」
数秒フリーズしたのち、うつろな顔に再び光を宿らせたマジュは言葉を最後まで紡いだ。決死で意識を繋ぎとめたマジュの体はふらつくこともよろめくこともなかった。僅かな一歩だが、大きな前進である。
「マジュちゃんがそういうならもう遠慮しないでいいんじゃない?」
両手を擦り合わせて手のひらに熱を作りながらエーダはそう言った。ユーシャがふうっと息を吐く。なかなかどうして、女性は強い生き物である──遥か遠くの祖国にいる母を思い出しながら、少年はそう実感した。
「よし、じゃあ俺は丁度いい木でも探して取ってくるよ」
「私もついていくわ」
二言三言と言葉を交わしながら振り返ることなくユーシャとマジュは森に向かっていった。そんな二人の背中をフアムは見つめてぼそっと呟いた。
「マジュの体を楽しむチャンスはなくなったかな……残念」
……。まだ十三歳であるにもかからわず今まで一人で生活することが長かったフアムは、ユーシャの仲間となりエーダと風呂に入ることで、すっかり女の体に味を占めた──もしも母性を求めているのであれば可愛いものだが──ようであった。もしフアムの正体が異世界転生を果たしたおっさんだったとしたら目も当てられない。たとえ悪者になったとしても満たしたい情念がある──それほどまでにフアムの中のおっさんは凶暴性を孕んでいた。
森の中へ消えていったユーシャ達を見送って場に残った形となったフアムは、さて自分は何をしようかと思案するも、大して何かを思いつくことはなかった。
「ねえエーダ、私は何をしたらいい?」
フアムが後ろを振り向くと、そこには誰もいなかった。火に──というよりもそれに紐づいてくるおねしょにトラウマがあるマジュに気兼ねする必要がないのならと、エーダは知識と経験を活かし、段取りを組んで既に行動を始めていた。
森と森の合間にある虫の音さえ聞こえない静寂に包まれた真夜中の平原に、フアムは一人ぽつんと取り残されたのであった。
「マジュ、疲れてんだろ? 俺一人に任せてエーダ達と一緒に休んでなよ」
「あんたさっきの醜態忘れたの? 一人で森に行かせるわけにはいかないでしょうが」
「へ? 醜態って?」
数刻ほど前につま先より先の視界すらままならないこの森に足を踏み入れたユーシャは、恐怖のあまりひどく取り乱して暴走の限りを尽くした。マジュはユーシャを心配してついてきたのだった。ユーシャは暗闇に苦手意識がある──はずなのだが、今彼女の目に映る少年は、先程と同様に暗む森の中なのにもかかわらず、そんな姿など想像もできないほど落ち着き払っていた。
「あぁ、そういえばそうだったっけ。うーん、いや、今はどんだけ暗くても特に何も感じなくなったなあ」
訊ねると、気の抜けた顔であっけらかんとした返事が返ってきた。
……。機能しているのかすら怪しい父親譲りのその頭は恐怖さえも既に忘却していた。
きっとこの男はトラウマなど心に刻まれることはないだろうな──そう感じたマジュはほとほと呆れ返っていた。
「その忘れっぽい所、羨ましいわ。あんたって得な性格してるわねえ」
「あっはっは! そんなことより、ちゃっちゃと材料を用意してさ、みんなで暖まろうぜ」
──マジュが不意にユーシャの肩辺りを強く掴んだ。ユーシャはマジュのその行為を疑問に思うことはなかった。マジュが遠くからの不穏な物音に反応したのだと即座に理解したからだ。
果たして音の正体は何なのか。二人は耳に神経を集中させる。枝葉を折る乾いた音。強く弾かれたかのように葉擦れの音ががさがさと鳴っている。何かはわからない。だが、生き物がこの漆黒の森の中で一心不乱に行動しているのは容易に想像できた。
「ユーシャ、魔物かな……」
「うん……。人や森に生息してる動物にしてはちょっと獰猛な動きに感じるよな」
警戒心を更に強めた。同時に平原に残したエーダとフアムのことも心配になってきた。しかし、静寂の森をざわつかせる何かが立てる音で、二人はその寸暇すらないのだと悟った。
四方八方からした音が、縦横無尽に動き回っているように思えたそれが、ある一瞬を境に、直線状の動きに変わった。遠くから聞こえた音は、少しずつ、しかし確実にユーシャ達に迫ってきていた。
「マジュ! 少し離れて! 俺の背中を頼む!」
「わかった!」
ユーシャが数歩ほど前に出る。同時にマジュは周囲を警戒しながら数歩後退った。共倒れを避けるように若干の距離を置いて、二人は高速で近づいてくる音に、襲撃に備えて即座に対応できるよう身構えた。
「────!」
両目の間、鼻根が少し熱くなるほどに、こぼれ落ちる雫一つさえ見逃すまいと集中したユーシャとマジュの顔が綻んだ。
「……あれ?」
「今の声って……?」
どこかなじみのある声のように聞こえた。ユーシャとマジュは新たに生まれた謎を解消しようとよく目を凝らした。
音が、声がする方向をじっと見つめる。
──てえ──!
再び聞こえたそれが叫び声だと認識して数秒とかからずに、暗闇に順応した二人の目は声の主を捉えた。




