103話「夜の森」
ユーシャの驚異的な走力と持久力を前に、マジュが白旗を上げたことによって追いかけっこは終了した。
と、いうよりもマジュの先を走るユーシャが、立ち止まった場所──別世界の入り口と言わんばかりに暗い森をその目に映した時、もう終わりと終戦宣言をしたのだった。
「あー、ユーシャを追いかけたから汗かいちゃったなあ」
マジュは自身の体臭の疑念に予防線を張った。
「まだ言うか。俺は気にしてないってば」
そんなに気にするなら四の五の言わずに風呂に入ればいいと思うユーシャだったが、好き嫌いというのはままならないものなのだろう。
「マジュがどれだけ嫌いなのかはわからないけど、たまには挑戦してみてさ、嫌いもたまには再確認する機会があってもいいんじゃないか?」
ユーシャの言葉にマジュは面食らった。ウィズアルド家に仕えるメイドからは淑女とは斯くあるべき、清潔に心掛けるのはもはや義務なのだと強く促されてきた彼女にとっては違う角度からの新鮮な意見だった。
「そういう言い方されると弱いなあ」
本当に弱った顔をした。柔らかい物言いに反発するのは憚られた。
「まあゴリエット達はお金もらってるんだからしょうがないさ」
マジュは、一人のメイドを思い浮かべていた。そのメイドはゴリエットとは対照的にマジュの良いとは言えない部分もむしろ肯定していた。
──まあまあ先輩、マジュ様にも好き嫌いはありますし、あまり無理強いをするのはいかがかなものかと──。
──スピードア、全くもってあなたらしいけれど、甘いと優しいは似て非なるものなのよ。何がマジュ様のためになるのかを考えていかないと──。
──スピードア、あまり私を庇わなくてもいいわよ。私なら大丈夫だから──。
──いえ? 私は全く庇っているだなんて意識はありませんよ──。
──じゃあどういうことなの──?
──マジュ様、あなたがお風呂を避けてても構いません──。
──……はあ──。
──マジュ様がお風呂に入らず、腐敗していくというなら、私もともに腐敗します──。
──意味わかんないし私が腐敗していく前提で話を進めないで──。
──マジュ様ならどんなにおいも最高、いえ、素敵です──。
──キモい──。
……あれは、ちょっと違うか──マジュは過去を思い返しながら、すさまじい勢いでトーンダウンしていた。
「ユーシャ、私も名誉のために言っとくけど、ちゃんと何日かに一回に体は洗ってるのよ」
「それはちゃんとって言えんのか?」
「水を浴びるのが好きじゃないから速さを極めただけなの。並の人間じゃ見逃しちゃうくらいには」
「あまり人間の速度超えんなよ? ちなみにどのくらいの時間なんだ?」
「一分切ったわ」
「カラスよりも早いじゃねえか。RTA気質かお前」
ユーシャとマジュが雑談をしているうちに、心配になって二人を探していたエーダとフアムも合流した。一行は眼前にある不気味で厳かな森を睨みつける。
「見れば見るほど不気味だなあ。とてもじゃないけど夜に足を踏み入れるような場所じゃないと思うぞ?」
及び腰なユーシャに、発破をかけるようにマジュが話し掛ける。
「いい加減腹を括りましょうユーシャ。サクッといってサクッと終わらせればいいのよ」
あまりにも皮算用だと、エーダが苦言を呈した。
「マジュちゃん、私達は探しものをしてるんだからそううまくはいかないんじゃないかしら?」
「精霊をもの扱いかよ」
フアムも本心を言えば夜の森を探索するのは抵抗があるようなのか、他の可能性を口にする。
「わざわざ森に入らなくてもさ、案外人が通る道に精霊が落ちてるのかもしれないよ?」
「遺失物じゃねえんだよ」
急げ──! 遠くから声が聞こえた。その声の主は直近によく耳に馴染んだ声だった。
「あっ! あいつらさっきの二人組か⁉」
「も、もう温泉に入ってきたのっ⁉」
「まったく……風呂を早く切り上げるなんて風情がないわね」
『お前が言うな』
マジュの発言に、エーダとフアムまでもがツッコんだ。若者二人が迫ってきている──余裕がないからか、普段はおしとやかな口調のエーダとフアムもユーシャとハモるくらいには言葉が荒かった。
「あーもうしょうがない! みんな、森に入るぞ!」
精霊の力とは果たして早い者勝ちなのかという話に結論が出ないまま、精霊を利用して良からぬことを考える若者二人に急かされてユーシャ一行は駆け足で鬱蒼と生い茂る森の中へ突入した。




