第八話 万華鏡
昼を少し過ぎた頃。
王都の大通りには、昼食を終えた人々が行き交っていた。
荷車が石畳を軋ませ、露店からは呼び込みの声が聞こえる。
建物の間を抜けてきた風が、軒先に吊るされた布を揺らしていた。
その人波の中を、シリウスとユリアが歩いている。
シリウスは周囲を見回しながら歩き、隣のユリアは半歩ほど後ろをついていた。
やがてシリウスが足を止める。
「ユリア」
「はい」
振り返ったシリウスが、手にしていたものを差し出した。
薄い革で表紙を覆った小さなノートと鉛筆だった。
ユリアは両手を伸ばして受け取る。
ノートの表紙を指先で撫で、それから開いた。
中には何も書かれていない白い紙が並んでいる。
「文字を書いたことないんだろ」
「……はい」
「まずは、看板でも、値札でもいい。知っている文字を書き写してみろ」
シリウスが通りの先を指した。
そこには、果物を並べた露店がある。
木箱の中には、赤い林檎や黄色い梨、房になった葡萄が並んでいた。
店先には木の札が立てられ、それぞれの果物の名前と値段が書かれている。
「知っている文字なら、書けるかもしれないだろ」
ユリアはノートを胸の前で持ち直した。
露店へ向かって歩き出す。
シリウスもその隣を歩いた。
果物屋の前で足を止めると、ユリアは並んだ果物を一つずつ見ていった。
林檎の木箱の前で視線を止める。
その横に置かれた札へ目を移す。
それから、ノートを開いた。
紙の上に鉛筆を置く。
ユリアの手が、ゆっくりと動き始めた。
鉛筆が紙の上を滑る。
ユリアは札に書かれた文字とノートを何度も見比べながら、一画ずつ線を重ねていった。
書き終えると、隣の木箱に並んだ梨へ視線を移した。
梨の札に書かれた文字を確かめ、ノートの次の行へ鉛筆を進める。
続いて葡萄。
それから桃。
果物が変わるたび、ユリアは札の文字をじっと見てから書き始めた。
書いている間、シリウスは店先に並ぶ果物を見ていた。
「林檎を三つ。梨も二つもらおう」
「はいよ」
店主が木箱から果物を取り出し、紙袋へ詰めていく。
シリウスはその横で、葡萄と桃を手に取った。
「こっちも、もらおう」
店主が葡萄と桃も紙袋へ入れる。
その間も、ユリアは札とノートを交互に見ながら、文字を書き続けていた。
林檎。
梨。
葡萄。
桃。
最後の文字を書き終えると、ユリアは鉛筆を置いた。
「書けました」
ノートをシリウスへ向ける。
シリウスは紙袋を受け取りながら、紙を覗き込んだ。
線の太さは揃っていない。
文字の形も、ところどころ歪んでいる。
それでも、一つひとつの文字を見比べながら、丁寧に写したことは分かった。
「なかなか上手いじゃないか」
ユリアがノートへ視線を落とす。
シリウスは紙に並んだ文字を指で追った。
「じゃあ、それを何も見ずに書くことはできるか?」
「え……」
ユリアの視線が札へ移る。
さっきまで見ていた文字が、店先に並んでいる。
ユリアは少しだけ考えてから、札から目を離した。
新しいページを開いて、鉛筆を紙に置いた。
最初の線を引く。
二本目。
三本目。
しかし、途中で鉛筆が止まった。
ユリアは紙の上を見下ろす。
先ほど書いたものとは、形が違っていた。
ユリアはわずかに首を傾げながらも、続きを書いた。
線を重ねるほど、文字から離れていく。
ユリアは鉛筆を置いた。
「できません……」
「最初はそんなもんだ」
シリウスは店主から袋を受け取り、ユリアへ視線を向ける。
「帰ったら、何回も書いてみろ。それで、何も見ずに書けるようになったら――」
シリウスは紙袋の口を少し開いた。
中には赤い林檎、黄色い梨、房になった葡萄、うっすらと産毛をまとった桃が入っている。
「これを食べていい」
ユリアの目が紙袋へ移る。
そのとき、店主が紙に包んだものを差し出した。
「にーさん、これも持っていきな、おまけだ」
シリウスが受け取る。
「いいのか?」
「頭を使うときには、甘いものがいるだろ」
「ははっ、そうだな。ありがとう」
包みを開くと、中には小さなアップルパイが入っていた。
手のひらに収まるほどの大きさで、表面にはきつね色の焼き目がついている。
シリウスはそれを見てから、ユリアへ差し出した。
「ほら、食っていいぞ」
ユリアが包みを見る。
「何ですか?」
「パイだよ。食ったことないか?」
「ないです」
ユリアは両手で受け取った。
顔を少し近づけ、匂いを嗅ぐ。
甘い香りが鼻先をかすめる。
端を小さくかじった。
ゆっくり噛む。
わずかに目が見開かれた。
「……林檎だ」
「そういうのは好きか」
「……はい」
もう一口かじる。
口元が、ほんの少し緩む。
シリウスは紙袋を持ち直した。
「じゃあ、食べながら行くか」
「はい」
二人は果物屋を離れた。
ユリアは片手に小さなアップルパイを持ち、もう片方の手でノートを抱えている。
シリウスは果物の入った紙袋を持ち、隣を歩いた。
大通りをしばらく進んだところで、シリウスが足を緩める。
「さて、次はどこへ行く?」
ユリアは周囲を見回した。
通りの先には、いくつもの道が伸びている。
少し考えるように視線を動かしてから、細い路地を指した。
「……こっちです」
ユリアは迷わず歩き出した。
大通りを外れ、二人の姿が建物の間へ入っていく。
細い路地へ入ると、大通りの喧騒が少しずつ遠ざかっていった。
両側の建物が近く、頭上には洗濯物を干した紐が渡されている。
壁際には木箱や空の樽が置かれ、ところどころに人ひとりが通れるほどの隙間があった。
ユリアは足を止めない。
角を一つ曲がり、さらに奥へ進む。
シリウスは紙袋を片手に、ユリアの後ろを歩いている。
しばらくすると、ユリアが別の道へ曲がった。
そこも細い路地だった。
大通りからは見えない場所にあり、人の姿もない。
やがて建物の間から光が差し込んだ。
路地を抜ける。
その先には、小規模な市場が広がっていた。
大通りの市場ほど店は多くない。
木製の台に野菜を並べた店や、布を吊るした露店がいくつか並び、荷物を抱えた人々が行き交っている。
シリウスが立ち止まった。
振り返って、今通ってきた路地を見る。
それから市場へ目を向けた。
「……よく知ってるな」
「はい」
ユリアは市場の先を見ている。
特に周囲を確認している様子もない。
どこに何があるのか、すでに分かっているようだった。
「この辺り、よく来るのか?」
「歩いているだけです」
「歩いているだけ?」
「はい」
ユリアは市場の端にある店を指した。
「あそこは、朝の方が店が多いです」
シリウスが目を向ける。
「へえ」
「この道は昼間でも人が少ないです」
ユリアは今来た路地を振り返った。
「西通りのパン屋は、昼前に行くと焼きたてがあります」
「そうか」
ユリアは歩きながら続けた。
「港へ行くなら、大通りより裏道の方が早いです」
市場の端を抜け、建物の脇を通る。
「雨の日は、この辺りの道がぬかるみます」
足元の石畳を見下ろした。
石と石の間に、黒ずんだ土が残っている。
シリウスはその場所を見た。
「お前、街のことなら結構知ってるんだな」
ユリアが振り返る。
「……そうですか?」
「ああ。少なくとも俺より詳しい」
ユリアは首を傾げた。
「シリウス様は、あまり歩かないんですか?」
「いや、よく歩いてはいる」
シリウスは周囲を見回す。
「ただ、こういう道はあまり通らないな」
「……そうですか」
ユリアは少し考えるように足を止めた。
それから、シリウスを見上げる。
「じゃあ、今度、私が案内します」
シリウスの口元が緩んだ。
「ああ、それはいいな」
ユリアは小さく頷く。
再び歩き出した。
市場の奥には、いくつかの店が並んでいる。
その中ほどで、ユリアの足が止まった。
軒先に、乾燥させた葉や根が束ねられている。
小さな木箱には、見慣れない草が種類ごとに分けられていた。
シリウスが隣に並ぶ。
「どうした?」
ユリアは薬草の並んだ店先を見ていた。
しばらくして、ひとつの束を指差す。
「これは、お腹の調子が悪いときに効きます」
次の束へ指を移す。
「こっちは、体が熱いときに効きます」
シリウスは少しだけ眉を上げた。
「……お前、名前は知らないのに、効能は知っているのか」
ユリアは札に書かれた文字を見た。
読めない文字が、薬草の横に並んでいる。
それから、もう一度薬草へ目を戻した。
「はい」
「どこで覚えた?」
ユリアは薬草の束を見つめた。
「……山で」
「山歩きもするのか?」
「はい」
シリウスはしばらく黙って、店先に並んだ薬草を見た。
それからユリアへ視線を戻す。
「なら、本を読むなら図鑑の類からが良さそうだな……」
「……ずかん?」
「植物とか動物とか、名前や生態が書かれた本だよ」
シリウスは店先の薬草を指した。
「物にもよるが、絵が多くて文字が少ない」
ユリアは並んだ薬草を見た。
「……そうですか」
シリウスは小さく頷いた。
二人は薬屋を離れ、再び市場の中を歩き始めた。
薬屋を離れ、二人は再び市場の中を歩いた。
通りには露店が並んでいる。
店先に吊るされた飾りが風に揺れ、陽の光を受けて小さく輝いていた。
その一角で、シリウスが足を止める。
露店の台には、色ガラスの入った小瓶や木製の小物、細かな細工を施した飾りなどが並んでいる。
その中に、細身の筒が一本だけ置かれていた。
シリウスが、それを手に取る。
「ユリア、こういうのは知ってるか?」
ユリアが横から覗き込む。
細長い筒を見て、首を少し傾けた。
「……望遠鏡?」
「形は似ているな。万華鏡だ」
「まんげきょう……」
「ああ。おもちゃの類だよ」
シリウスは筒の端を指で示した。
「ここを覗いて、こう、回してみろ」
ユリアは両手で受け取った。
片方の目を覗き穴に近づける。
赤、青、黄色。
いくつもの色ガラスが組み合わさり、幾何学的な模様を作っている。
ユリアが筒をゆっくり回した。
ユリアの目が、わずかに見開かれる。
「……変わった」
もう一度回す。
ユリアは覗き穴から目を離した。
そして、今度は反対側を覗き込む。
「どうなっているんですか?」
「鏡の反射を使って、そうなるようにしてるんだ」
「鏡……」
ユリアはもう一度、覗き穴へ目を当てた。
筒をゆっくり回す。
同じ形が左右に繰り返され、中央を軸にして模様が広がっている。
しばらく眺めてから、ユリアが顔を上げた。
「……鏡が三枚?」
シリウスがユリアを見る。
「……驚いたな。もう仕組みが分かったのか」
ユリアは万華鏡の中を見たまま答える。
「模様が、全部対称的なので」
再び筒を回す。
赤いガラスが動き、青い欠片と重なる。
別の模様が生まれる。
また回す。
形が変わる。
ユリアは何度か繰り返した。
「……面白いですね」
口元が、ほんの少し緩んだ。
シリウスはその表情を見てから、露店の台へ視線を戻した。
「気に入ったなら、それも買おう」
ユリアが顔を上げる。
「……いいんですか?」
「ああ。ステラの土産にも良さそうだしな」
「ステラ?」
「妹だよ。小さくて、ふわふわなんだ」
その顔に、わずかな笑みが浮かぶ。
ユリアはシリウスを見る。
「……シリウス様は、妹さんが好きなんですね」
「おう。可愛いからな」
シリウスは肩をすくめるように笑った。
「案外、お前と気が合うかもしれん。機会があれば、紹介しよう」
ユリアは万華鏡へ視線を落とした。
少しだけ考えるように、筒の表面を指でなぞる。
「……そうですか」
ユリアは手にしていた万華鏡を露店の台へ戻した。
シリウスは露店の主人へ声をかけた。
「これを二本もらえるか?」
「あいよ」
主人は台の下から同じ万華鏡を二本取り出した。
シリウスは二本を受け取り、代金を支払った。
一方を手に残し、もう一方をユリアへ差し出す。
「ほら」
ユリアは両手で受け取った。
細い筒を落とさないよう、指を添える。
「……ありがとうございます」
「行くぞ」
シリウスが先に歩き出す。
ユリアは、手の中の万華鏡へ視線を落とした。
しばらく筒を眺めてから、覗き穴へ目を当てる。
赤と青の色ガラスが重なり、幾何学的な模様を作っていた。
筒をゆっくり回す。
模様が変わる。
もう一度回す。
また別の形へ変わった。
ユリアは覗き穴から目を離す。
数歩先を歩くシリウスへ視線を向けた。
ユリアは万華鏡を両手で持ち直した。
それから、シリウスの背中を追った。
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