第四十六話 二つのドレス
「またお待ちしております」
店先では、ルシアンが帰り際の客を見送っているところだった。
春の陽射しが石畳を照らし、通りには荷車の車輪が転がる音や、店先で交わされる人々の声が響いていた。
軒先に吊るされた看板が風に揺れ、花を売る露店では、色鮮やかな花束が籠いっぱいに並んでいる。
客の姿が通りの向こうへ消えると、ルシアンは店の扉へ手を掛けた。
「伯爵ー!」
聞き覚えのある声に振り返る。
灰色マントを揺らしながらこちらへ手を振る少女と、その隣を歩く銀髪の若い騎士。
ユリアとシリウスだった。
人々の間を抜け、ルシアンの店へと近づいてくる。
「おや、お二人ともお揃いで。お出掛けですか」
二人はルシアンの前で足を止めた。
ユリアが一歩、ルシアンの方へ踏み出す。
覗き込むように視線を向け、にこりと笑った。
「はい――ドレスを買いに来ました」
ルシアンの目が、わずかに見開かれた。
すぐに穏やかな笑みを浮かべ、扉を開けて二人を迎え入れる。
扉の鈴が軽やかな音を立てた。
「ようこそいらっしゃいました。ご案内いたします」
店内には、色とりどりのドレスが並んでいた。
壁際の衣桁には淡い色のドレスが掛けられ、奥の展示台には刺繍を施したものや、裾に細かな装飾をあしらったものが並んでいる。
天井から吊るされた照明が、布地の光沢を照らしていた。
「アルヴェイン公国の舞踏会に招待されたんだが、ユリアも同行することになってな」
「なるほど。では、舞踏会用のドレスをお探しなのですね」
ルシアンはシリウスの隣に立つユリアへ目を向け、微笑んだ。
「それなら、良いものがございます。少々お待ちください」
そう告げて、店の奥へと姿を消した。
ルシアンを待つ間、シリウスは店内に視線を巡らせた。
「気になる店って、伯爵の店だったのか」
「はい。いつも配達でしか来ませんから」
やがてルシアンが戻ってきた。
その手には、一着のドレスが掛けられている。
ユリアは目の前に差し出されたドレスを見て、目を見開いた。
「こちらを取りに来られたのではありませんか?」
黒みを帯びた深紅のドレスだった。
肩から鎖骨にかけて大きく開いた胸元には、金糸の刺繍が施されている。
身体に沿うような上半身から、腰を境に軽やかな布が幾重にも広がっていた。
「なんだ、気に入ってるのがあったのか」
シリウスがユリアとドレスを交互に見て、口元を緩ませた。
ドレスをじっと見つめるユリアに、ルシアンは目を細める。
「以前、店先の硝子窓に飾っていたとき、外で見ておられましたよね」
「……気付かれていたんですか」
「商人の勘です」
ユリアは一瞬だけ目を瞬いた。
それから小さく笑う。
「さすがですね」
ユリアはドレスを一度だけ見て、わずかに目を伏せる。
「……でも、すいません。今日はそのドレスではなくて」
そう言って、ユリアは襟元に手を入れた。
服の下に隠していた小さな笛を取り出し、指先でつまむ。
鳥の意匠が彫り込まれた小さな木笛だった。
「これに合うものを探しに来たんです」
ルシアンは笛に目を向けた。
その隣で、シリウスがわずかに肩を上げた。
「えっ、それをつけて行く気か」
「ダメですか」
「いや、ダメじゃないが……ただの笛だぞ。なんかもっと、あるだろう?」
ユリアはわずかに眉を寄せた。
呼び笛を両手で包み、シリウスを見上げる。
「……」
「あー、分かった、悪かったよ。お前が気に入ってるなら何でもいいさ」
シリウスは片手で後頭部を掻き、ルシアンへ視線を向けた。
「悪いな、伯爵。ユリアの望むようにやってくれ」
「……かしこまりました」
ルシアンは小さく頷き、呼び笛を一瞥した。
それから、壁際の衣桁に掛けられたドレスに目を留めると、一着をユリアへ差し出した。
「こちらの色などいかがでしょう」
淡い青緑色のドレスだった。
柔らかな布地が膝下まで広がり、袖口と裾には細いレースがあしらわれている。
背中には、結び目から長く垂れる大きなリボンが添えられていた。
ユリアはドレスを手に、試着室へと向かった。
しばらくして、カーテンが開く。
ルシアンはユリアの姿を眺め、裾へと視線を落とした。
「丈は、もう少し短くしてもよさそうですね」
「そうですか?」
ユリアは裾をつまみ、少し持ち上げた。
ルシアンはユリアの前で膝を折り、裾をさらに少しだけ持ち上げた。
「あちらの国であれば、このくらいでも馴染みますよ」
ルシアンが示した丈は、膝下ほどだった。
「え……」
少し離れた位置で見ていたシリウスが声を漏らした。
ルシアンはシリウスへ視線を向け、微笑んだ。
「アステリアでは、社交場で淑女が足を見せることは嫌がられますが、あちらではそうでもありません」
次いで、ルシアンはユリアへ顔を向ける。
「それにユリアさんは、足元は軽い方がお好みでは?」
「はい、軽ければ軽いだけいいです」
「……」
シリウスはユリアの足元を見て、眉を寄せた。
その様子に気付いたルシアンは、店内の陳列棚へ目を向けた。
棚から薄手の長い靴下を一組取り出し、二人に見せる。
「気になるようでしたら、こういう薄手の長い靴下を合わせてみてはいかがでしょう」
シリウスはしばらく靴下を眺め、腕を組んだ。
「……それなら、まぁ……」
「ユリアさんも、よろしいですか」
「はい。伯爵は商売上手ですね」
ユリアは頷いて、小さく笑った。
「それほどでもありませんよ」
ルシアンも笑みを浮かべた。
その後、ユリアは何着か試着したが、結局は淡い青緑色のドレスを選んだ。
丈の調整を待つ間に、ユリアが元の服に着替えて店内へ戻る。
その足が、ふと止まった。
最初にルシアンが持ってきた深紅のドレスが、店内の衣桁に掛けられていた。
ユリアはその前に立ち、裾に施された刺繍へ目を落とした。
指先が、布地に触れる。
「ご試着だけでも、されますか」
ルシアンが声を掛けると、ユリアは手を引いた。
「いえ、そういうつもりじゃ……」
ユリアは視線を落とした。
その様子を見て、シリウスが小さく息を吐く。
ユリアの横へ歩み寄り、衣桁に掛かったドレスに手を伸ばした。
「いいじゃないか。着て見せてくれよ」
シリウスがドレスを差し出す。
照明の光に当たり、生地に深い紅の艶が浮かぶ。
ユリアはシリウスとドレスを交互に見て、少しだけ考えるように黙った。
「……少しだけですよ」
やがてユリアはドレスを受け取り、試着室へ入っていった。
「あいつは時々、俺のことを意地っ張りと言うんだが」
閉じたカーテンの方へ目を向けたまま、シリウスが呟く。
「あいつも、なかなかだよな?」
「そのようですね」
ルシアンは口元に笑みを浮かべた。
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