第四十五話 領主の来訪
春の陽射しが、街並みを明るく照らしていた。
通りには荷車の車輪が転がる音や、店先で交わされる人々の声が響いている。
軒先に吊るされた看板が風に揺れ、石畳の上を花びらが一枚、転がっていった。
通りに面した一軒の服飾店。
扉を開けて店から出てきたルシアンは、通りの左右へ目を向けた。
見渡しても通行人ばかりで、足を止めている人はいない。
「……誰かいる気がしたんだが……」
ルシアンは視線を戻し、硝子窓に目を留めた。
大きな硝子窓の向こうに、ドレスが飾られていた。
裾には細かな刺繍が施され、胸元から袖にかけて薄い布が幾重にも重なっていた。
陽射しを受けた生地が、角度を変えるたびに柔らかな光を返している。
ルシアンは少しだけ首を傾けた。
通りを行き交う人々が背後を通り過ぎていく。
誰かの笑い声が聞こえ、荷車の音が遠ざかる。
「気配はすれども姿はなく、か……」
ふと、灰色マントの配達人の姿が脳裏に浮かんだ。
ルシアンはわずかに目を細めた。
「……」
しばらくドレスを眺めたあと、店の中へ戻る。
◇
一か月後。
ステラは執務室で書類に目を落としていた。
向かいではノアが資料を脇に置いて書き物をしている。
ユリアは壁際の書棚で記録簿を整理しており、リアもそれを手伝っていた。
隣の給湯室からは茶器の触れ合う音が微かに聞こえてくる。
エリオットが茶の用意をしていた。
午後の穏やかな時間だった。
そこへ、軽快な足音が近づく。
リアが気づいて扉の方へ振り返るのと同時に、扉が開いた。
「ステラー!」
快活な声が部屋に響き、ノアの肩がわずかに跳ねる。
短く切りそろえた銀髪に、日に焼けた肌。
騎士服に身を包んだ男が大股で部屋に入ってきた。
手には紙袋を下げている。
「シリウス兄様」
ステラは突然の来訪者に目を瞬いた。
シリウスは一度部屋を見渡してから、ステラへ視線を移す。
「おう。息災か」
「はい、この通り」
ステラは笑って、小さく頷いた。
給湯室から出てきたエリオットに、シリウスは手に下げていた紙袋を差し出した。
「焼き菓子だ。適当に出してくれ」
「ありがとうございます。さっそくお出ししましょうか」
エリオットは紙袋を受け取ると、再び給湯室へ戻っていった。
ステラは手元の書類を机に置き、シリウスへ向き直った。
「それで、今日はどうされたのですか」
ノアも羽根筆を置き、シリウスへ目を向ける。
「たしか軍議のために騎士団本部にいらっしゃるとは聞いていましたが」
「ああ、さっき終わったところだ。じきに議事録も回ってくるだろう」
シリウスは気軽に答え、空いている椅子の背に手を掛けた。
その様子を横目に、ユリアが記録簿を棚へ戻す。
「どうせ、暇になったから来たんでしょ。すぐ陛下を構おうとするんですから」
リアは隣で記録簿を抱え直し、呆れたように口元を緩めた。
「相変わらずですね」
「まぁな」
シリウスは悪びれる様子もなく頷いた。
「ステラは日々可愛さが更新されていくからな。構える時に構わないと、もったいないだろう」
ステラは困ったように笑った。
「もう、兄様ったら……」
ノアは再び羽根筆を手に取ったものの、口元には笑みが浮かんでいた。
シリウスは肩を揺らして笑い、ステラへ視線を向ける。
「ただ、今日はそれだけじゃない。相談……というより、頼みがあってきた」
「頼み……私にですか?」
ステラは首を傾げた。
シリウスは上着の懐に手を入れ、内ポケットから一通の封書を取り出した。
封蠟は割れているが、王城では見慣れない印が押されていた。
「アルヴェイン公国側の国境の街から届いたものだ」
シリウスは封から出した紙を机の上に置いた。
ステラがわずかに身を乗り出して、覗き込む。
「舞踏会の招待状ですか」
「ああ。一時期は緊迫状態だったが、星泉の共同研究のおかげで、あちらでも友和を望む声が高まっているらしい。それで、グランセルの領主として招待されたんだが……問題は、ここだ」
シリウスが文面の一か所に指を置く。
横からノアも覗き込んで、その一文を読み上げた。
「『パートナーをお連れください』」
ステラはわずかに目を瞬いて、シリウスを見上げた。
「パートナー……」
シリウスは招待状から手を離し、肩をすくめた。
「今までなら、こういう時は姉様に頼んでいたんだが……修道院に入った人を連れ出すわけにもいかないだろう」
「そうですね」
ステラは招待状へ目を落とし、小さく頷いた。
「そこで、だ」
シリウスはそこで言葉を切り、ユリアへ顔を向けた。
「ちょっと、ユリアを借り受けたい」
「……へ?」
ユリアは記録簿を棚に戻そうと持ち上げたまま、振り向いた。
「パートナー……え、護衛ではなく?」
手にした記録簿を抱え直し、ユリアはシリウスを見た。
シリウスは口元を上げた。
「ああ、パートナーだ」
「……ほかに居ないんですか」
ユリアが尋ねると、シリウスは顎に手を当てる。
「ほか、か……ステラは立場的に連れ出せんしな。あとは……」
言いながら、シリウスはリアへ視線を移した。
リアは眉を寄せ、すぐさまユリアへ目を向ける。
「私にダンスは無理だぞ」
「……それは知ってます」
ユリアはわずかに肩を落として頷いた。
ノアがユリアの方を向いて、首を傾ける。
「ユリアさんは、踊れるんですか?」
「やったことありません」
ユリアは即座に答える。
シリウスはそれから不思議そうに首を傾けた。
「いや、お前はできるだろ」
言い切るシリウスに、ユリアは眉をひそめる。
シリウスは肩をすくめて、椅子から腰を上げた。
「なら、試してみるか」
そう言って、シリウスは机の前に立った。
ユリアへ向かって両腕を広げる。
「来いよ」
ユリアは口を結び、訝しげにシリウスを見た。
しばらくそのまま立っていたが、やがて手にしていた記録簿を書棚へ戻す。
小さく息を吐き、シリウスの前まで歩いていく。
シリウスが片手を差し出す。
ユリアはその手に自分の手を重ねた。
もう片方の手がユリアの背に添えられる。
シリウスが一歩踏み出した。
ユリアもそれに合わせて足を運ぶ。
ゆるやかに進み、向きを変える。
シリウスが身体を引くと、ユリアはその動きに合わせて回った。
灰色マントの裾がわずかに広がる。
二人の足取りに迷いはなかった。
そのまま執務室を一周する。
最初に立っていた机の前へ戻ると、揃って足を止めた。
ノアは目を丸くし、ユリアとシリウスを交互に見た。
「できるじゃないですか」
リアも意外そうに眉を上げる。
「なんでできるんだ、お前は」
ステラは小さく笑って、拍手を送る。
「上手でしたよ、ユリア」
シリウスは満足そうに口元を上げ、ユリアの手を離す。
「ほら、な」
「……なんでシリウス様が得意げなんですか」
「お前は多才だからな」
ユリアは納得のいかない顔でシリウスを見上げた。
「なんか癪です」
シリウスは肩を揺らして笑った。
その様子を見て、ステラは口元を緩ませる。
「ユリア。楽しんでくださいね、舞踏会」
青灰色の瞳に見つめられ、ユリアは肩を落とす。
「……はい」
シリウスは再び椅子に腰掛け、ユリアに目を向ける。
「ドレスはこっちで用意するつもりだが、何か希望はあるか?」
ユリアはすぐには答えず、少し考えるように視線を泳がせた。
「……それなら、気になっているお店があるんですが……」
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