第三十三話 夏の残像
夏の陽射しが、闘技場の石壁を白く照らしていた。
観覧席には朝から多くの観客が集まっている。
選手たちの名が呼ばれるたび、歓声が広がっていく。
「現在、大会二連覇中!留まることを知らぬ男、シリウス・ゼフィール!」
その瞬間、歓声が膨らんだ。
シリウスは観客席へ顔を向け、軽く手を上げて応えた。
視線を上へ移すと、観覧席の最上段にレオニスの姿があった。
レオニスは席に腰を下ろし、試合場を見下ろしている。
歓声が響く中、幼い頃の記憶がよみがえる。
◇
レオニスの執務室で、シリウスは扉の脇に立ったまま、兄を眺めていた。
「でも、俺は兄様みたいにはできない」
レオニスはシリウスを見つめた。
少しだけ間を置いて、笑う。
「お前にしかできないこともある」
「俺にしか?」
シリウスが首を傾げる。
「お前は、お前のやり方でいいだろ」
「……俺のやり方」
「そうだ」
シリウスの顔に笑みが戻る。
「そうか、俺のやり方か!」
◇
シリウスは最上段の貴賓席を見上げたまま、わずかに目を細めた。
レオニスは変わらず、試合場を見下ろしている。
シリウスは一度だけ頷くように顎を引き、競技場の中央へ進む。
肩に鈍い痛みが走った。
一瞬だけ眉を寄せ、すぐに表情を戻す。
襟元には白い包帯がのぞいている。
西南の任務から戻って間もないシリウスの肩には、まだ傷が残っていた。
シリウスは対戦相手と向かい合い、剣を構えた。
審判が手を上げた。
合図とともに、相手が踏み込んでくる。
低い位置から振り上げられた剣を受け流し、返す刃で相手の剣を弾く。
金属音が響く。
二度、三度と剣が交わった。
相手はシリウスの肩口へ狙いを定め、踏み込んでくる。
「っ……」
その刃が視界に入った瞬間、シリウスの動きが止まった。
―――腕に響くような重い一撃。
―――迫る剣先。
―――肩に走る鋭い痛み。
西南の戦場で見た光景が、目の前に重なった。
相手の剣が迫る。
シリウスは遅れて剣を持ち上げた。
刃がぶつかり、衝撃が肩へ伝わる。
歯を食いしばり、後方へ退く。
相手は追撃を急がず、剣を構え直した。
シリウスも間合いを取り、剣先をわずかに下げる。
呼吸を整える。
次の踏み込みに合わせ、シリウスは横へ動いた。
相手の剣が空を切る。
その隙に懐へ入り、相手の剣を弾き飛ばした。
シリウスは相手の喉元へ剣先を向けた。
「勝者、シリウス殿下!」
審判の声が響き、観客席から歓声が上がった。
シリウスは剣を下ろし、対戦相手へ一礼する。
相手も礼を返した。
剣を鞘へ納め、試合場を離れる。
通路へ入ったところで、シリウスは足を止めた。
剣を握っていた手を開く。
指先が、わずかに震えていた。
シリウスは一度、手を握り直した。
それから、何事もなかったように歩き出した。
その後、シリウスは準決勝まで勝利を収めた。
控室へ入ると、ユリアが救急箱を手に待っていた。
シリウスは襟元からのぞく包帯に目を落とした。
包帯は薄っすら赤く染まっていた。
ユリアへ視線を戻して、小さく息を吐く。
「怒っているのか」
「べつに、怒ってません」
ユリアは救急箱を卓に置いた。
「……座ってください」
促され、シリウスは椅子に腰を下ろした。
上着を脱ぎ、肩を出す。
ユリアは隣に椅子を寄せて座り、包帯をほどいていく。
赤く滲んだ傷口が露になると、ユリアは一瞬だけ眉を寄せる。
すぐに表情を戻し、清潔な布で血を拭き取った。
新しい包帯を肩に回し、緩みがないよう丁寧に巻いていく。
シリウスはその手元を見ていた。
やがて、包帯の端が留められ、傷口から手が離れる。
それから、ユリアはわずかに目を伏せ、シリウスの背中にそっと頭をもたせかけた。
シリウスは思わず肩を跳ねさせた。
「ユリア?」
「……おまじないです」
ユリアは静かに呟いた。
シリウスはわずかに目を瞬かせた。
背中に触れる額が温かい。
傷の疼きとは違う熱となって、ゆっくりと広がっていく。
「……そうか」
窓から風が入り、卓の上の手拭いを揺らした。
二人の間に、しばらく言葉はなかった。
やがて扉の向こうから足音が近づいてくると、ユリアは頭を離した。
シリウスは上着を羽織る。
扉が叩かれ、係の者が声をかける。
「シリウス様、お時間です」
「ああ」
シリウスは短く答えて、脇に置いていた剣を腰へ戻す。
二人は控室を出て、競技場へ続く廊下を歩く。
廊下の先が開けると、ユリアは足を止めた。
「行ってくる」
「はい」
シリウスは振り返ることなく競技場の中央へ向かう。
ユリアはその背中から目を離さなかった。
やがて、隣に人の気配がした。
「……レオニス殿下の護衛はどうしたんですか」
ユリアは横目で隣を見た。
ローランが競技場へ視線を向けていた。
「ヴィクトルに任せてきた。手持ち無沙汰そうにしてたからな」
「そうですか」
ユリアは再び、競技場へ視線を戻した。
「……遠くまで行けそうか?」
ローランが呟いた。
体の横に下ろされたユリアの指が、わずかに動く。
「……分かりません」
「行ってみたいか?」
ユリアは競技場へ目を向けたまま、しばらく答えなかった。
風が吹き込み、焦茶色の髪が揺れた。
「……私は、遠くからでも……」
ユリアは唇を開き、言葉を探した。
「シリウス様のところに、駆けつけられるでしょうか?」
最後の言葉は、かすかに震えていた。
ローランはわずかに目を見開いた。
ユリアは俯かず、ただ、シリウスの背を見つめていた。
ローランはゆっくりと手を伸ばし、ユリアの頭に置いた。
軽く、二度叩く。
「出来るさ、お前なら」
シリウスは剣を抜き、構えた。
審判の合図とともに踏み込み、足元の砂が跳ねた。
相手の剣をかわし、背後へ回り込む。
相手の背中の向こうに、こちらを見ているユリアがいた。
ふと、いつかの訓練場で交わした言葉が蘇る。
◇
ユリアはシリウスの前まで歩き、足を止めた。
焦茶色の髪が肩のあたりで微かに揺れる。
「私、王室専属配達人になりたいです」
シリウスはしばらく何も言わなかった。
手にしていた剣を鞘へ戻す。
刃が鞘の内側を滑り、最後に小さく金属音が響いた。
「……本当にいいのか?」
「はい」
「なるのも、続けるのも、たぶん簡単じゃないぞ」
ユリアは小さく頷いた。
「でも、決めました」
◇
あれから、三年以上の月日が経っていた。
シリウスはわずかに目を細める。
(……簡単じゃないとは言ったが、ずいぶん時間が掛かったな……)
横なぎに振られた剣を、シリウスは身を沈めてかわした。
踏み込む。
相手の剣を下から弾き上げた。
乾いた音を立てて、剣が砂の上を転がった。
互いに動きを止め、一瞬の静寂が競技場を包んだ。
「勝者、シリウス・ゼフィール!」
審判の声に、堰を切ったように歓声が広がる。
「シリウス殿下!」
「見事な勝利だ!」
「今年も優勝とは、さすがです!」
観客席から、次々と称賛の声が飛ぶ。
シリウスは剣を下ろし、相手へ手を差し出した。
相手がその手を取る。
二人は短く言葉を交わし、互いに一礼した。
シリウスは観客席へ向き直った。
手を振ると、歓声がさらに大きくなった。
シリウスは笑みを浮かべたまま、観客席を見渡した。
称賛の声。
振られる旗。
こちらへ向けられた無数の顔。
今は、誰もが自分を讃えていた。
肩の傷が疼いて、わずかに眉が動く。
―――ひとつ躓けば、この声はどう変わるのだろう。
その考えが胸に重く落ちる。
シリウスはわずかに目を伏せた。
(……失敗はできないな……)
剣の柄を握り直した。
観客席の上段を見上げると、レオニスが軽く手を叩いていた。
シリウスは口元を上げる。
「……できたぞ、兄様」
その声に返事はないが、視線の先で、レオニスも口元を緩めた。
シリウスは踵を返し、競技場の出口へ足を向けた。
その先に、ユリアとローランの姿があった。
シリウスは息を吐き、肩の力を抜いた。
風が吹き抜け、細かな砂が足元を駆けていった。
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