第二十九話 殿下と侍従
伝令の仕事とヴィオラから出される課題をこなすうちに、数か月が過ぎた。
ユリアが足を運ぶのは、国内だけではなくなっていた。
隣国への伝令も任されるようになり、行き先や道順を記した地図が少しずつ増えていく。
報告書の作成に追われる日々の合間には、ヴィオラが手配した文官や商人から講義を受けた。
国の制度や各地の産業、交易の仕組み。
机に向かう時間も以前より長くなっていた。
その日も、ユリアは書き上げたレポートをヴィオラに提出した。
「……覚えが早いですね」
レポートに目を通しながら、ヴィオラが呟いた。
「そうでしょうか?」
「ええ。シリウス様より、よほど」
ユリアはわずかに目を瞬いた。
それから、にこりと笑う。
「……そうですか」
ヴィオラも微笑む。
「レポートは問題ありません。次もお待ちしています」
「はい」
ユリアは頷いて、部屋を出た。
廊下では、書類を抱えた文官や盆を手にした侍女が行き交っていた。
ユリアは壁際に寄り、何人かと軽く会釈を交わしながら、その間を抜けていった。
城を訪れるたび、ユリアは城内を巡ることにしていた。
廊下や回廊のつながり、部屋の配置、庭の木々。
目に入るものを少しずつ増やし、城の造りを確かめている。
庭へ出ると、雨上がりの空気が頬を撫でる。
葉先にはまだ雫が残り、石畳の隅には小さな水たまりができていた。
ユリアは人通りの少ない場所を選び、近くの木へ手を掛けた。
幹の凹凸に足を掛け、枝を伝って上へ登る。
葉の間から顔を出すと、庭の向こうに回廊が見えた。
しばらく視線を巡らせていると、銀色の髪が目に留まった。
レオニスだった。
(……シリウス様の、お兄さん……)
レオニスの隣には宰相がいた。
二人は歩きながら何かを話している。
宰相が手元の書類を示し、レオニスがそれに目を落とす。
やがて回廊の奥へ進み、柱の向こうへ姿を消した。
ユリアは二人が消えた方向へ目を向け、枝を伝って隣の木へ移った。
回廊沿いの木々を渡り、建物の角を越える。
窓に面した銀木犀まで来ると、枝葉の隙間から室内を覗いた。
室内では、レオニスが机のそばに立ち、書類に目を通していた。
先ほどまで隣にいた宰相の姿はない。
ユリアは枝に片手を掛けたまま、しばらく室内のレオニスを眺めていた。
やがて、別の枝へ移ろうと足を掛け直す。
その瞬間、足元で小さな音がした。
「えっ」
枝がしなった。
葉の陰から縄が跳ね上がり、ユリアの足首に巻きつく。
次の瞬間、枝が元の位置へ戻る反動で、体が一気に引き上げられた。
視界が大きく傾く。
気づいたときには、ユリアは逆さまの庭を見下ろしていた。
白い花が、ぱらぱらと頭上から降ってくる。
微かに甘い香りが漂った。
「……なに、これ……」
状況が飲み込めず、目を瞬いていると、下から声がした。
「やっと捕まえた」
木の向こうから、青年が姿を現した。
短く切り揃えた髪。
その隣には、後ろで長い髪を三つ編みにまとめた青年が立っている。
二人は侍従の制服を着ており、その顔立ちは互いによく似ていた。
「結局、殿下の策に頼ってしまったな」
長髪の青年が、吊られたユリアを見上げた。
「まあ、捕まえられたんだからいいだろ」
短髪の青年は肩をすくめる。
二人の目が改めてユリアを見上げる。
「ユリア・レインだな」
「ちょっと同行願おうか」
ユリアは二人を見た。
それから、自分の体に絡まる縄を見る。
「……ええー……?」
ユリアは逆さ吊りのまま、眉を寄せた。
二人の侍従に連れられ、ユリアは城内の廊下を進んだ。
やがて、一室の前で足が止まる。
短髪の青年が扉を開け、ユリアを中へ促した。
部屋の奥では、レオニスが机に向かっていた。
扉の音に顔を上げ、三人へ目を向ける。
「殿下、お連れしました」
短髪の青年が告げると、レオニスは眉を上げた。
「おお、捕まえたのか。どこに掛かった?」
「そこの銀木犀に」
短髪の青年が、レオニスの背後にある窓へ目を向ける。
「そうか。案外近かったな」
レオニスも窓の外へ視線を移し、口元に笑みを浮かべた。
「どうだった?」
「片付けが面倒です」
長髪の青年が小さく息を吐きながら答えた。
「そうか。改良の余地がありそうだな」
「……」
ユリアは黙ったまま、レオニスを見ていた。
冬空のような青い瞳が、ユリアへ向く。
「君が、ユリアか」
「……お初にお目にかかります」
「ああ」
レオニスはゆっくりと頷いた。
「シリウスやヴィオラ卿から話は聞いていたが、なかなか姿が捉えられなかった。気配を消すのが上手い、というのは本当らしいな」
「……お手間を掛けましたか?」
「大したことはない」
レオニスの口元がわずかに上がる。
「楽しめたさ」
「……」
ユリアは答えず、レオニスを見た。
「俺は楽しくありませんでしたが」
長髪の青年がぼやくと、レオニスが肩を揺らす。
「そう拗ねるな。助かったよ」
「……ふん」
長髪の青年は顔を背ける。
「城には慣れたか?」
「……少し」
「そうか」
レオニスは机の上に置かれた書類へ目を落とした。
「ヴィオラ卿に聞いた。勉強が順調に進んでいるんだろう」
「……はい」
「これから城へ来る機会も増えるだろうから、私もそろそろ紹介しておこうと思ってな」
レオニスは書類から顔を上げ、短髪の青年を指さした。
「こっちがフェリクス」
フェリクスは目を伏せた。
レオニスの指が、長髪の青年へ移る。
「そっちがフィン」
フィンはわずかに顔を背けた。
「二人とも、私の専属侍従だ。何かあれば、頼るといい」
ユリアは二人の侍従を見比べた。
よく似た顔が並んでいる。
やがて、ユリアはレオニスへ視線を戻した。
「……はい」
小さく頷く。
レオニスも頷いた。
「悪かったな、急に連れてきて。もう退がっていいぞ」
「……はい」
ユリアは踵を返し、扉へ向かった。
扉に手を掛ける直前、足を止めて振り返る。
「あの……」
レオニスが顔を上げる。
「ん?」
「……ノート、ありがとうございます」
レオニスの眉がわずかに上がった。
「役に立っているか?」
「……はい」
「そうか」
レオニスは椅子の背へ身を預け、口元を緩ませる。
「それは良かった」
ユリアは軽く頷いて、部屋を出る。
廊下の窓から、庭の銀木犀が見えた。
風が吹き、枝先の白い花が揺れた。
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