第二十四話 決勝戦
準決勝からしばらくして。
闘技場には、先ほどまでとは違う静けさがあった。
観客席では人々が身を乗り出し、決勝戦を待っている。
夏の日差しが石造りの壁と白い砂を照らし、熱を含んだ風が試合場を抜けていた。
控え室で、シリウスは水を飲んでいた。
残った水を飲み干し、空になった杯を置く。
額の汗を拭う。
肩を回すと、上着の布が擦れた。
息を一度、長く吐く。
足元の剣を拾い、柄を握る。
指を開き、もう一度握り直した。
やがて係の者が呼びに来る。
シリウスは立ち上がり、歩き出す。
入口を抜けた瞬間、歓声が闘技場いっぱいに広がった。
最上段にレオニスとローランの姿を見つけ、一度だけ視線を向けた。
そのまま中央へ進む。
反対側の入口が開いた。
「対するは――騎士団副団長、ヴァルター・グレン!」
歓声が一段と高くなった。
ヴァルターは声援に目を向けることなく、中央へ歩いてくる。
鍛えられた身体を濃紺の騎士服に包み、胸元には副団長を示す銀章が留められていた。
ヴァルターがシリウスを見る。
視線が肩から腕へ、そして握られた剣へ移った。
シリウスも、相手の足元を見る。
続けて、立ち位置。
重心。
剣を握る手。
ヴァルターが剣を抜いた。
シリウスも剣を抜く。
二つの刃が、夏の日差しを受けて光った。
審判が二人の間に立つ。
「両者、構え」
ヴァルターは剣を身体の前に置いた。
力みのない、自然な構えだった。
シリウスも剣先をわずかに下げる。
観客席のざわめきが、少しずつ小さくなる。
最後に残った音は、闘技場の外壁に掲げられた旗が風に揺れる音だった。
審判が一歩下がる。
「――始め!」
先に動いたのは、ヴァルターだった。
踏み込みと同時に、剣が横へ走る。
シリウスは刃を合わせた。
金属音が響き、受けた剣が押し込まれる。
砂を削りながら後ろへ流れたシリウスに、ヴァルターは追わなかった。
間合いを測るように、剣先を戻す。
次の一撃は斜め上からだった。
シリウスは刃を滑らせ、横へ回る。
そのまま返すが、届くより早くヴァルターの剣が戻った。
甲高い音が二度、三度と続く。
シリウスが左右に回り込もうとするたび、ヴァルターの剣先が進路を塞ぐ。
ヴァルターの肩が動く。
踏み込む――そう見えた瞬間、動きが止まった。
先に動いたのは、シリウスの足だった。
シリウスは一歩、前へ出る。
低く剣を滑らせると、ヴァルターが半歩退き、下から刃を差し入れた。
弾かれた剣が外へ流れる。
追ったシリウスの剣を、ヴァルターは肩を引いてかわした。
返された柄が手元へ迫る。
シリウスは手首を返して受けた。
重い衝撃。
「っ……」
痺れた腕を引き、間合いを外す。
ヴァルターは追わず、剣先を正中へ戻した。
シリウスは握り直す。
指先に、わずかな震えが残っていた。
踏み込めば受ける。
避ければ追わない。
攻めれば返される。
そのたびに、シリウスだけが足を動かされていた。
ヴァルターの剣先が、わずかに上がった。
シリウスは身構える。
しかし、ヴァルターは動かない。
シリウスは小さく息を吐き、踏み込んだ。
刃がぶつかる。
押し合う寸前で剣を引く。
流れたヴァルターの刃へ、シリウスの剣が入った。
ヴァルターが身体を捻る。
刃が脇をかすめた。
返された剣を身を低くしてかわし、シリウスはさらに踏み込む。
ヴァルターの足が、初めて下がった。
一撃。
二撃。
三撃目を外へ流されても、シリウスは止まらない。
ヴァルターの剣が下から跳ね上がった。
鋭い音とともに、二人の剣が交差する。
ヴァルターが押した。
シリウスの足が砂の上を滑る。
剣を外し、距離を取った。
肩で息をするシリウスの向かいで、ヴァルターも一度だけ息を吐いた。
その額に、薄く汗が浮かんでいた。
「……」
シリウスは呼吸を整えながら、ヴァルターの足元を見る。
さきほどの攻防で、ヴァルターが下がった位置だった。
そこから、わずかに前へ出る。
ヴァルターが踏み込んだ。
互いの刃がぶつかる。
シリウスは受けたまま押し返さない。
ヴァルターの力を横へ流す。
ヴァルターの身体がわずかに開いた。
シリウスの剣が、その脇を狙う。
ヴァルターは身体を引いた。
刃先が騎士服をかすめ、布が裂けた。
ヴァルターが一歩下がる。
シリウスは追わず、剣を戻す。
ヴァルターも構え直した。
互いの距離が開く。
観客席から歓声が上がった。
ヴァルターは裂けた脇の布へ一瞬だけ目を落とし、すぐにシリウスへ視線を戻した。
今度は、ヴァルターから踏み込んだ。
先ほどより速い。
シリウスは一撃目を受ける。
二撃目をかわす。
三撃目を剣の腹で流した。
ヴァルターがさらに踏み込む。
シリウスは後ろへ下がる。
砂が跳ねた。
四歩。
五歩。
試合場の端が近づいた。
シリウスは足を止めた。
ヴァルターの剣が迫る。
シリウスは身体を横へ滑らせた。
刃が肩をかすめ、上着の布が裂けた。
そのままヴァルターの横を抜ける。
二人はすぐに向き直った。
ヴァルターは剣先を下げた。
「……まだ続けられるか?」
シリウスは肩を見る。
赤い線が滲んでいた。
それから、剣を構え直した。
「ああ、問題ない」
シリウスは短く答える。
ヴァルターは一度だけ頷いた。
再び、二人の剣が上がった。
シリウスは踏み込まない。
剣先だけを右へ、左へ動かす。
ヴァルターの視線が追う。
シリウスが半歩だけ前へ出る。
ヴァルターが先に踏み込んだ。
シリウスは半歩下がり、振り下ろされた一撃を受ける。
押し合わず、刃を滑らせると、ヴァルターの剣が外へ流れた。
シリウスは追わない。
肩から血が一筋、砂へ落ちた。
ヴァルターの視線が、ほんの一瞬だけ傷へ向く。
次の瞬間、深く踏み込んだ。
シリウスは身体を傾けてかわす。
刃が髪をかすめ、そのままヴァルターの横を抜けた。
二人はすぐに向き直る。
シリウスが一歩、前へ出る。
もう半歩。
ヴァルターは動かない。
シリウスがそこで止まると、ヴァルターが踏み込んだ。
横薙ぎを受け、続く突きを外へ流す。
ヴァルターの身体が前へ出た。
今度は、シリウスが下がらなかった。
刃を添え、そのまま横へ押し流す。
ヴァルターの腕が開いた。
シリウスが内側へ入る。
ヴァルターは剣を戻そうとする。
その手元へ刃を走らせた。
ヴァルターの剣が跳ね上がる。
――カラン。
剣が乾いた音を立てて砂の上へ落ちた。
シリウスの剣先が、ヴァルターの喉元で止まる。
闘技場が静まり返った。
審判が二人を見て、声を張る。
「――勝負あり!」
直後、観客席から大きな歓声が上がった。
シリウスは剣先を下ろした。
ヴァルターは一歩下がる。
砂の上に落ちた剣を拾い上げ、刃についた砂を払った。
それから、ゆっくりと鞘へ収める。
「見事でした、シリウス様」
ヴァルターはわずかに口元を上げた。
シリウスは返事をせず、肩で息をした。
右肩の裂けた上着に血が滲んでいる。
ヴァルターがそれに気づく。
「その傷、先に手当てを」
「……ああ、分かってる」
シリウスは剣を鞘へ収めた。
金属の擦れる音が、短く響く。
審判が中央へ進み出る。
「本大会、優勝者――シリウス・ゼフィール殿下!」
歓声が一気に膨れ上がった。
シリウスは顔を上げる。
観客席の最上段へ視線を向ける。
レオニスとローランが立っていた。
ローランが静かに頷く。
レオニスもわずかに口元を上げている。
シリウスは、自分の手を見た。
剣を握っていた手。
指をゆっくり開く。
掌に汗が残っていた。
もう一度、拳を握る。
「……できた」
一筋の風が、闘技場を抜けていった。
外壁に掲げられた旗がはためく。
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