第十九話 勉強
王城の廊下を、ユリアが歩いていた。
手には一通の封書を抱えている。
騎士団本部を出てから、何度か案内板を確かめた。
王城の奥へ進むにつれ、騎士よりも侍従や侍女の姿が増えていく。
磨かれた床に、靴音が小さく響いていた。
やがて、目的の扉の前で足を止める。
ユリアは封書を持ち直した。
扉の横に立つ侍女へ声をかける。
「騎士団伝令部所属、ユリア・レインです。ヴィオラ卿にお目通り願います」
侍女は頷いて、部屋の中へ声を掛ける。
「ヴィオラ様、ユリア殿がいらっしゃいました」
「通して」
落ち着いた声が返ってきた。
ユリアは一礼してから、部屋へ入った。
窓際には大きな机が置かれている。
壁際の本棚には、背表紙の揃った本が並んでいた。
机の向こうには、一人の女性が座っている。
淡い色のドレスに、結い上げられた髪。
机の上には数冊の本と書類が整然と並んでいた。
女性が顔を上げる。
「あなたがユリアね」
「はい」
「ヴィオラ・ゼフィールです。どうぞ、そちらに座って」
ヴィオラは向かいの椅子を示した。
ユリアが腰を下ろす。
ヴィオラは机の上へ視線を向けた。
「ローラン殿からの推薦書を預かっているのでしょう?」
「はい」
ユリアは封書を差し出した。
ヴィオラが受け取り、封を切る。
一枚の紙を取り出し、目を走らせる。
しばらくして、ヴィオラの口元がわずかに緩んだ。
「さすがローラン殿ね……細かい推薦書だこと」
ヴィオラの指が紙の上をゆっくりと滑る。
そこには、ユリアの騎士団での働きが事細かに記されていた。
「地理は得意なのね」
「はい」
「人の顔や名前を覚えることも」
「はい」
短く答えるユリアを見て、ヴィオラは頷いた。
次の項目へ目を移す。
「読書は苦手だと」
「……はい」
「歴史や法律も」
「……はい」
ユリアの視線がわずかに下がった。
「……そう」
ヴィオラは推薦書を机へ置いた。
そのまま椅子の背へ身体を預ける。
「あなたは……覚えることが苦手なのではなく、覚え方に向き不向きがあるのでしょうね」
「覚え方……?」
ユリアはわずかに首を傾げた。
ヴィオラは頷いて、続ける。
「王室専属配達人になるなら、伝令の技術だけでは足りません。作法、歴史、法律。それに王城で働く者や貴族の顔と立場も覚える必要があります」
窓から入り込んだ風が、カーテンを微かに揺らす。
「あなたに合う方法で学びましょう」
机の上に並ぶ本へ目を向ける。
「まずは作法です。これは、侍従や侍女を見て覚えなさい」
「……見る?」
「ええ」
ヴィオラは窓の外へ目を向けた。
「歩き方、立ち方、扉の開け方。物を受け取るときの手の位置や、王族の方への声の掛け方。城の中では、日々そうした動作を見ることができます。それを、見て、覚えなさい」
「……」
「あなたは人を見て覚えることは、得意なのでしょう?」
「はい」
「なら、それを使えばいいわ」
ヴィオラは次の本へ手を伸ばした。
「歴史は、これを使いましょう」
ユリアが本を受け取る。
「……歴史の本?」
「戯曲よ。王国の出来事を題材にしたものです」
ユリアは表紙を眺めた。
ヴィオラが続ける。
「全部読む必要はありません。シリウス様に観劇へ連れて行ってもらいなさい」
「……観劇に?」
「ええ。舞台を見ながらなら、文字だけを追うより覚えやすいでしょう」
「……はい」
ユリアが本を抱える。
ヴィオラはその様子を確認してから、机の端に置かれていた別の本へ手を伸ばした。
分厚い本だった。
ユリアの視線が、その本の表紙で止まる。
「そして、法律。こればかりは、本を読むしかありません」
本が机へ置かれる。
鈍い音がした。
ユリアは両手を膝の上に置いたまま、本を見つめる。
ヴィオラが表紙を開いた。
細かな文字が、ページいっぱいに並んでいる。
「まず、このあたりを読んでみて」
ユリアは本を引き寄せた。
指先を最初の行へ置く。
「……国における土地の所有権は、その土地を……」
ゆっくりと声に出す。
一行目を読み終え、次の行へ指を移す。
「……有する者に帰属するものとし……」
そこで止まった。
眉間に、ほんの少し皺が寄る。
もう一度、最初から目を追う。
指が途中で止まり、今度は少し前の行へ戻った。
「……」
数文字読んだところで、ユリアは本から顔を上げた。
ヴィオラと目が合う。
「……難しい?」
「……はい」
ユリアは本へ視線を戻す。
「同じところを、二回読んでしまいました」
ヴィオラの口元がわずかに緩む。
「そう」
ユリアはもう一度ページを見る。
文字は変わらず、細い行がいくつも続いている。
しばらくして、そっと本を閉じた。
「毎日少しずつ読みなさい。最初からすべて理解する必要はありません」
「……はい」
「難しければ、誰かに読み聞かせてもらってもいいわ」
ユリアは閉じた法律書を見下ろし、小さく呟く。
「……読み聞かせ」
ヴィオラはその言葉には触れず、机の脇へ手を伸ばした。
「それから、これを」
薄いノートを取り上げる。
「レオニス殿下から預かった、要点をまとめたノートです」
ユリアが顔を上げる。
「レオニス殿下……シリウス様の、お兄さんですか?」
「ええ」
ヴィオラがノートを差し出した。
「もともとは、勉強嫌いのシリウス様のために作られたものですが……あなたの役にも立つかもしれないと、貸してくださったのです」
ユリアは両手で受け取った。
表紙を眺める。
やがて、そっと開いた。
整った文字が並んでいる。
項目ごとに線が引かれ、重要な部分には印がつけられていた。
法律書とは違い、文字の間に余白がある。
ユリアの指先が、一行をなぞる。
しばらくして、ヴィオラが声をかけた。
「お会いすることがあれば、お礼を言っておきなさい」
ユリアはノートから顔を上げた。
「……はい」
ノートを閉じる。
法律書と重ねて、膝の上へ置いた。
ヴィオラは机の上の書類を一枚にまとめた。
「当面は、この四つから始めましょう」
指先で順に示す。
「作法は、城の者を見て覚える。歴史は戯曲を使って、シリウス様と観劇へ。法律書は少しずつ読むこと」
最後に、ユリアの膝の上にあるノートを見る。
「分からないところは、そのノートを使いなさい」
ユリアは頷いた。
「……はい」
「それと、地理については今まで通りでいいでしょう。伝令部の仕事を続けながら、王都以外の地域についても少しずつ覚えていきなさい」
「分かりました」
ヴィオラは椅子から立ち上がった。
ユリアも続いて立つ。
「今日はここまでです。明日から、少しずつ始めましょう」
「はい」
ユリアは本を抱え直した。
法律書の重みで腕が少し下がる。
その上に、歴史劇の本とレオニスのノートを重ねる。
「ヴィオラ卿」
「何かしら?」
ユリアが振り返った。
「……これから、よろしくお願いします」
ヴィオラは一瞬だけ目を細めた。
「ええ。頑張りなさい」
「はい」
ユリアは一礼し、部屋を出た。
扉が閉まる。
廊下へ出たユリアは、腕の中の本を見下ろした。
ユリアが退室した後、ヴィオラはしばらく、扉を見ていた。
机の上には、推薦書が残っている。
ふと、幼い頃のシリウスを思い出した。
勉強の時間になると、机から離れる。
廊下を走り、階段を駆け下り、城のどこかへ逃げていく。
その後を、ローランが追いかけていた。
捕まれば捕まったで、椅子の上で落ち着かず、足を揺らしていた。
「……ふふ」
窓から入り込んだ風が、推薦書の端を揺らす。
「まさか、あの子から人の勉強を見てほしいなんて頼まれることがあるとはね」
ヴィオラは口元を緩めた。
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