桜吹雪と人力車
武家屋敷の塀と平行して続く桜並木に、まだ冷たさを帯びた春の突風が吹き付ける。やわらかい桜の花びらが無数に舞い散る桜吹雪の中を、一台の人力車が駆け抜けていた。
車に乗っているのは、大江すずりである。いつもの麻の葉模様の銘仙に葡萄茶色の袴を身に着け、ひざ掛けをかけている。何を忍ばせたのか、着物の胸のあたりがぽこりと膨らんでいる。顔の半分を覆うほどの大きな丸眼鏡に日光を反射させつつ、居眠りの船を漕いでいた。
車を引いている車夫は、なんと青墨だ。大江の家ですずりの家族同様に育ったのだから、車引きの仕事をして稼ぐ必要はない。それでも額に汗を光らせて自ら車を引いているのは、送っていくのは自分の役割だと考えているからだ。
武家屋敷の塀も桜並木も、永遠に続くかのように思われたが、やはり終わりはくるもの。ひとつ道を挟んだところで塀が角を迎え、その先は突如として西洋風の煉瓦づくりの壁になった。鉄格子が差し込まれ、豊かな木々の緑が上からのぞく。
やがてその壁も終わりを迎えると、掲げられた「花夢女学校」の看板とともに、開け放たれた校門へとたどり着いた。一心不乱に走り続けたようでありながら、あくまで冷静沈着だった。青墨は行き過ぎてしまうことなく、校門の看板の前でぴたりと車を停め、口をあけているすずりの肩を揺すった。
重そうなまぶたをこじ開けてふああと伸びをすると、膝掛けをたたんで傍に置く。着物の胸元を確かめ、葡萄茶色の袴の裾を揺らして、右手側にあった風呂敷包みに手をかけた。同時に、足元に隠れていたテンが、先に車から滑り降りた。
すずりは立ち上がると、本人の背中の三倍はありそうな大きさの風呂敷包みを、よいしょと背負う。ぐらりと大きく身体が傾くが、ダンと編み上げブーツの踵を鳴らして踏みとどまる。青墨に手を差し出され、風呂敷包みだけが先に着地しそうな危うさを経て、なんとかすずりも地面に降り立った。
門のすぐ先の学校の敷地内には、色彩豊かな花々が敷き詰められた花壇がある。太陽の眩しさに目を細めて見上げれば、白いペンキに塗られた真新しい木造の校舎がそびえたっていた。
「送ってくれてありがとう、青墨」
すずりは大きな丸眼鏡を光らせて、口元だけ微笑んで青墨のほうを見る。静かな表情の額にまだ消えない玉の汗を浮かべたまま、青墨はかすかにうなずいた。
テンの尻尾を撫でようと身を屈めようとするが、大きすぎる風呂敷包みに阻まれる。気づいた青墨が抱き上げ、すずりの腕へと滑り込ませた。
大きな眼鏡ごとすりすりと顔を擦り付け、すんすんと匂いを嗅ぎ、何度も尻尾を撫で上げる。しばらくそうした後、決意を固めたように顔を上げ、テンを青墨の腕へと押し付けた。
新調したブーツのつま先を、躊躇することなく学校の敷地内へと踏み入れる。鉄製の門をくぐり、三歩ほど歩いた後、青墨のほうを振り返った。
「おじじさまと母上のこと、そしてテンのお世話もお願いします」
「硯は、持ったのか」
青墨の問いに、すずりはぽこんと膨らんでいた胸元に手をやる。すいと抜き出し、布で包んだ黒い硯の角のあたりを見せ、また仕舞った。祖父・文鎮が与えた、すずりの名の由来になったものだった。
「たまには外を歩いたりしろよ」
「わかっているわ。それに、ここでも体操の授業はあるようだし」
眼鏡を光らせたまま口元を歪めて体操の授業への感情を示すが、ふたたび微笑んで青墨に手を振った。
それきり、すずりは二度と振り返らない。大きな風呂敷包みに押しつぶされそうな背中が、徐々に小さくなっていく。
名残惜しいが、ここは男子禁制の女学校である。青墨はどこからかとがめるような視線を覚え、先ほどまですずりが腰を下ろしていた場所にテンを下ろす。
梶棒を持ち上げ、車の向きをくるりと変えて、すっかり軽くなった人力車をもと来た方角へと引き始めた。桜吹雪は新たに始まる生活の希望に満ち溢れているようでいて、まだ冷たさの残る春風が残酷に花びらを舞い散らせているだけかもしれなかった。




