洋書とビスケット
「それではそろそろお暇します」
「車が到着するまでの間に、理事長室に寄って持ち帰る洋書を選ぶと良い」
優雅に珈琲をすすりながら冬斗に言われ、すずりはぶんぶんと首を振る。
「もったいないことですわ。女学校とは道を一本挟んだだけの目と鼻の先にあるとおっしゃったではないですか。裏門から入って校庭を突っ切ればよろしいのですよね」
すずりが言うと、冬斗が視線を泳がせた。すると、小ぶりなバスケットをテーブルに置きながら、衛藤が口を開く。
「理事長と校長の許可を得た外出ではありますが、本来、外泊は禁止です。月曜の朝から、寝じわの寄った着物を着た女学生が、校庭を突っ切っているというのは外聞がよろしくないでしょう。授業が始まってから、目立たぬようにお戻りになるのがよろしいかと」
物静かに言われ、すずりはようやく事態を飲み込む。バスケットからは、ぷうんとあまい匂いがただよっていた。
「これは」
「わたしが焼いたビスケットです。よろしければ本日のティータイム用にお持ちください」
バスケットの蓋を開ければ、良い匂いはさらに濃厚に広がった。丸く形の整った、こんがりと焼けたビスケットがきれいに詰め込まれている。朝食をいただいたばかりだというのに、すずりの喉がごくんと鳴った。
「それでは理事長室へ案内しよう」
ドアへと向かう冬斗に続き、すずりはバスケットを手に立ち上がり、上等な背広に包まれた広い背中を追いかけた。
冬斗の説明を受け、時計製造の歴史、会社設立と経営の心得、消費者心理学の三冊を選び、風呂敷に包んでもらった。日本語で読んだとしても理解に時間がかかりそうな内容だったが、とりあえず書物に目を通し、頭の中へと放り込んでみるのがすずりのやり方である。
“著しの儀”の報酬である辞書と、すずりが持参した硯は、昨日のうちに校長に預けられ、さち子が寄宿舎の部屋へと持ち帰ったとのことだった。
ずしりと重いそれにビスケットのバスケットを重ねて抱えようとすると、代わりにひょいと冬斗がそれを手に取った。
「あの、自分で持ちます」
「西洋では、婦女子に配慮する“Ladies First”の考えがあり、叩き込まれている。遠慮は無用です」
「……そう、なのですか?」
理事長室のドアを開け、玄関に向かう冬斗の背中を眺めながら、耳慣れない発音で奏でられた“Ladies First”を、小声で真似てみる。何度か繰り返してみたが、舌を巻いたり唇を噛んだりして出る冬斗のそれとは、同じようには発音できなかった。
ブーツは履いたままで。理事長邸に上がる際に衛藤からそう言われたが、寝起きでブーツを履く元気のなかったすずりは、医務室のベッド脇に並んでいた上履きのままここまできてしまった。だが、玄関まで来てみれば、すずりの編み上げブーツがきちんと揃えて置いてある。
(衛藤、さんは、何人か分身がいるに違いないわ)
すずりはそんなことを思いながら身を屈め、ブーツを履く。玄関を出ると、新しい一日がすでに始まっている日の光のまぶしさに、すずりは眼鏡の上へと手をかざして目を細めた。
(いろんなことがありすぎて長かったような、それでいて短い半日?だったわ)
うわさの理事長に対面し、“著しの儀”で加賀の令嬢たちの秘密を暴いたことを問い詰められたかと思えば、理事長からも“著しの儀”を依頼されてその母親が残した思いを書き著し、医務室を借りてたっぷりと眠り、朝食まで一緒にいただいてしまった。
“著しの儀”を行った後に起きる自然現象なのだが、それでも粗相は粗相である。秘書である衛藤の態度から、ご納得いただけていないことは察せられた。
(今後も引き続き、洋書をお借りできるご縁はつないでおきたいものだけれど)
大江の家とも縁があるようだが、それでもやはり立場が違いすぎた。一応遠慮して持ち帰れなかった洋書との別れを惜しんで、すずりが門のあたりから玄関を振り返った時のことだった。




