朝の洗顔
「はあ、さっぱりしたわ」
すずりは洗面所で顔を洗い、口をゆすぎ、置かれていたタオルを拝借して丁寧にぬぐい、眼鏡を戻して写った鏡の中の自分と向かい合った。
相変わらず、ぱっちりと開ききらないまぶたである。
身体はまだあちこちにだるさが残っていたが、それでも昨晩に比べたら良くなっていた。
ぐきゅるるる。
せつない音がして、帯の下あたりに手を添える。
そこには、まるで行き止まりの見えない洞窟の暗闇のような不気味な空腹を覚えた。
一度目覚めて貪り食べた、香り高くも苦味のあるザッハトルテ、バターがたっぷり染み込んだフィナンシェ、つるりとした喉越しのババロアはどこへいったのだろう。
(本当に、心底、けっこうなお味だったわ……)
どれもこれもすずりがはじめていただく洋菓子だったが、まるで夢のような味だった。
思い出して舌なめずりをしていると、すずりの体内に生まれた巨大な闇はさらなる強い渇望を訴え、生まれてこの方耳にしたことのない音が鳴り響く。
とても人には聞かせられないと、さすがのすずりも慌てた時のことだった。
「おはようございます」
唐突に背後から声をかけられ、すずりは品のない悲鳴をあげてしまう。
と、背後から乾いた大きな手のひらが伸びてきて、口をふさがれた。
「お静かに。冬斗さまは朝のこの時間、集中して書類に目をお通しになるのです」
鏡越しに見えたのは、音も立てずに移動する、秘書の衛藤だった。
事態を把握したすずりがこくこくとうなずけば、四角い眼鏡の下の瞳でじろりと眺めた後、手を離してくれた。
「ぷはあ」
すずりは呼吸を整え、そして申し訳程度に着物に寄ったしわを直す。
目覚めれば、普段から身につけている麻の葉模様の銘仙に帯を締めたまま眠っていた。
“著しの儀”を終えたすずりはそれこそ泥のように眠るため、さち子も手を出しかねたのだろう。
「そういえば、さち子さんは……」
「昨晩のうちに、寄宿舎へ戻られました。楠校長が車でお送りになられています」「そうですか」
貴重な日曜日に丸一日付き合わせてしまった。
いや、かくいうすずりも呼び出されたひとりなのだけれど。
さち子の不在に、なんとなく物足りなさを覚えたすずりが、一応髪を撫で付けて衛藤に向かい合うと。
「朝食をお召し上がりになりますか?」
「よ、よろしいのですか?」
ややどもり気味に、だが遠慮の欠片もなくすずりが言えば、衛藤は表情の変化も見せずにうなずく。
そしてサッと踵を返すと、音も立てずに廊下を歩き出した。
「ご案内します」
「は、はい」
ベッド際に用意されていた履き慣れない上靴でもって、必死で衛藤の背中を追いかければ、ふと、すずりは思い至って口を開く。
「あの、もしかして理事長もいらっしゃるのでしょうか」
すずりが問い掛ければ、衛藤はぴたりと足を止め、振り返った。
「先ほど申し上げた通りです。朝食は、仕事を終えてからお召し上がりになります」「そう、ですか……」
圧に押され、なかば強引にうなずかされると、衛藤はまた、音も立てずに廊下を歩き出した。
(冬斗さま、か)
それは理事長である鷹峯の名なのだろう。
日本人離れした手足の長さ、毛先の跳ねるやや茶色みがかった髪、くっきりと通った鼻筋、光の反射によってさまざまに見える青灰色の瞳。
(言葉少なに、静かに話す人だったわ)
冬斗の容貌を思い描けば、すずりの中には、またあの海のような情があふれてきて、せつなさに胸が締め付けられる。
だが、そんな“著しの儀”の余韻に浸る余裕は、冬斗最優先で無駄を許さない秘書・衛藤は許してくれなかった。
「こちらです」
いつの間にか姿が見えなくなり、すずりが声の主を探してきょろきょろとすれば、廊下の角を曲がったところから、衛藤の四角い眼鏡がのぞく。
これ以上秘書を不機嫌にしてはいけないし、そこへ行けば今にも悲鳴を上げそうな腹へと食べ物を放り込んでやれる。
そう考えたすずりは、慣れない上靴につまずきそうになりながらも、早足で廊下を歩いたのだった。




