さち子の秘密
「すずりさんはあの通り、口で話すより文字を書いてやりとりするほうがお得意な方です。それに対し、理事長、校長とお強い立場の方々に次々に詰められては、身動きがとれませんわ。少々汚い手をお使いになったのではありませんこと?」
そろりそろりと腕を下ろし、衛藤に突きつけたひとさし指を他の指と揃えて、さち子は膝の上へと置いた。
「“著しの儀”をさせたかったのであれば、そうおっしゃれば十分でしたわ。すずりさんはお人好しとも言えるほど、気の良い方です。追い詰めたりせずとも、お菓子と洋書のご褒美だけでお引き受けされたと思いますわよ」
ひとえの垂れ目の奥を鋭く光らせて、さち子は言う。梨小路家は先の帝の兄弟が起こした宮家で、春斗とは従姉妹にあたる。
外遊帰りでその辺りに疎い冬斗だったが、今日の日に備えて女学生名簿に目を通していた。表面上だけならば妃候補にもなり得るさち子だったが、その素性は少し異色なものであることも記憶している。
「ふふ、このような差し出がましい口をきく女学生がいるとは意外でしたか?たしかに梨小路は宮家ですが、わたくしは正妻の子ではありませんし、女だけでも十四番目です。それに、わたくしを産んだ母は、どこでどう出会ったのか、隠密の仕事をしていたようです。もうとっくにお調べでしょうけれども」
さち子の発言に、冬斗は軽い違和感を覚えた。知識では知っているが、隠密というその単語を生々しく人の口から発せられたのを耳にしたのは、はじめてかもしれない。
「今ではスパイとでもいうのかしら。この時代に仕事があるのかわかりませんが、とにかく何かの命は受けていたようで、ある日わたくしがイノシシのスケッチを終えて山を下り、家のあった住所へ戻って参りますと、燃えた家の残骸だけが残り、母は姿を消していました。
すずりさんには刺激が強すぎると思って、人手に渡ったことにしたのですけれど、きっと燃やされたのですわ。母が集めた何かか、もしくは母自身を消すために。まあ、あの人のことだから、どこかへ落ち延びて生きているとは思いますけれども」
突然、強い風が開け放たれた窓から吹き込んだ。
冬斗が書類を押さえれば、衛藤が音も立てずに窓辺に寄り、窓を閉めた。ふたたび部屋の中に、沈黙が訪れる。
「住むところもなくなったわたくしは、父に呼び出され、女学校の推薦を受けてやって参りました。しかし、梨小路の家には他にも姫は何人かおります。わたくしでなくても良いでしょうに、なぜ選ばれ、そして“著しの儀”を行う才を持つ、大江すずりさんと相部屋になさったのか。偶然というにはできすぎているようにも、勘繰ってしまいますけれど」
「部屋割りについては、楠校長に任せてある。わたしにその意図は計りかねる」
冬斗が言えば、さち子は微笑みながら軽く首を傾げ、姿勢を変えてティーカップを取り上げた。そしてひと口紅茶をすすり、またテーブルへと戻した。
すると衛藤が音も立てずに近づき、空になったカップへとポットから紅茶を注ぐ。泰西軒でのことを詰められたにもかかわらず、衛藤の所作は丁寧で、隣に立たれているさち子も、表向きは優雅に微笑んでいた。
(胃が痛む)
冬斗はデスクに肘をつき、水面下で静かな戦いを繰り広げているふたりを見守る。
おそらく、宮中も、政府も、このようなやりとりが日常茶飯事なのだろう。外遊帰りの冬斗には、政府入りの誘いの手紙が毎日のように寄せられるが、冬斗自身は封を切ることなく、衛藤に任せていた。その判断は正しかったらしい。
(理屈通りに組み立てれば動いてくれる機械のほうが、よほど気が合う)
冬斗はふたたび、腕の時計に目をやる。
部屋へ来てから四半刻ばかり経っていた。先ほど目を通しかけた、時計の部品製造を委託する会社の書類を開きたいと冬斗の手がうずうずし始めたところで。
換気のために半分ほど開けたままにしていたドアの廊下の向こうから、ブーツのかかとがコツコツと鳴る音が近づいてきた。




