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相棒の昼食

 工房を出て、洗面所で顔を洗うと、まず冬斗は理事長室へ向かった。


 楠校長はまだ残っているだろうか。ノックをし自分であることを告げると、返事の前にドアが開かれる。ドアの向こうから、ぷうんとあまい匂いがただよった。


「冬斗さま」


 衛藤の険しい表情と声に、冬斗がひとり工房にこもって時計の修理をしている間、いかにこの忠実な秘書を逆なでていたかが想像でき、すまなく思う。肩に手を置くと、冬斗はそのあまい匂いのする先へと向かった。


「ごきげんよう、鷹峯理事長。無作法ながら、お先にわたくしひとり、お食事をいただいておりましたの」


 応接用のソファから立ち上がった、梨小路家の令嬢──さち子といったか、が口元についたパンくずを叩き落としながら微笑む。


 先ほど自分で修理した腕時計で確かめれば、とっくに正午をまわっていた。テーブルの上には、衛藤がワゴンで運んできた洋菓子の類とは別に、ハムやチーズを挟んだサンドウィッチの皿があった。


「気にせず続けてください」


 食事をする部屋は別にあるが、平日の昼食は冬斗も理事長室でサンドウィッチをつまむくらいで済ませることが多い。手のひらを見せて着席を勧めると、さち子は軽く腰を落とし、またテーブルに向かった。


「大江君は」


 冬斗が問い掛ければさち子も振り返るが、先に衛藤が口を開く。


「医務室のベッドでお休みになっています。今は、楠校長が付き添っておられます」「お食事をいただいたら、交代させていただきますわ」


 口を挟んださち子に衛藤の眉がぴくりと動くが、冬斗はうなずいて見せる。


「翁からは、昼寝程度まで済むこともあれば翌朝まで起きてこない場合もあると聞いていたが」

「あらゆる事態に備えて支度を整えておきます」


 衛藤と会話をしながら、冬斗はデスクの向こうの自分の椅子へと腰を下ろす。


 時計工房での名残がまだ身体に残っていたが、健康的な食欲でもぐもぐと食事を続けるさち子の存在によって、いつまでもそちらの世界に浸っているわけにはいかなかった。


(むしろ、良かったのかもしれない)


 外遊していた十年分、いや、むしろ生まれてから母が儚くなるまでに与えられた、厳しくも深い愛情を丸ごと一身に受け止めたのだ。浸っていようと思えば、いくらでもそうしていられる。だが、自らが理事長を務める女学校の女学生を前にして、魂の抜けたような顔を見せるわけにはいかなかった。


 日曜日ではあるものの、設立したばかりの鷹峯時計製造株式会社の代表として、仕事はいくらでもあった。重要な部品の製造を委託しようと考えているある企業の資料を取り出し、目を通そうとした時のことだった。


「袴紐 結びて踏むは 花だたみ 門の向こうに そびゆ学舎」


 突如口ずさまれた和歌に、冬斗は資料から顔を上げる。すると紅茶のカップを手に持ちながら、膝をこちらへ向けるさち子の姿があった。


「たった三十一文字の和歌で“著しの儀”を行った際には、一刻ほどのお昼寝で済みましたけれども、今回はどうでしょう。あれだけの日記と手紙の量では、何日も起きていらっしゃらないかもしれませんわね」


 そう言ってにっこりと微笑み、紅茶をすする。ちらと衛藤に視線を向ければ、その静かな瞳に警戒の色が浮かんでいた。


 加賀侯爵家の令嬢たちの入れ替わりについて、こちらとしてはもうあれきり持ち出すつもりはなかった。にもかかわらず、さち子の側からその和歌の話題を持ち出してくるとは──。


 ティーカップをソーサーに重ねてテーブルへ置くと、山吹色の友禅の袖を持ち上げる。そしてのぞいた華奢な手首を動かし、ひとさし指の先を衛藤のほうへと向けた。


「そちらのあなた。わたくしたちが加賀の令嬢がたとお食事をしていた泰西軒で、給仕をしていたとおっしゃいましたわね。わたくし、あの場での会話について一言一句、注意深く耳を澄ませておりましたけれども、入れ替わりについて確信的な言葉はなにひとつ出ませんでした。純朴なすずりさんに、カマをかけましたわね?」


 衛藤の四角い眼鏡の奥のまつ毛が、軽く瞬いたのを冬斗は見逃さなかった。


 ひとえまぶたの垂れ気味の目は、一見すると、おとなしい令嬢の印象を与える。だが、衛藤を指差し挑むように覗き込む瞳は、眼光鋭い。


 冬斗は、公家の血を引く狐目を同じように細めながらも強い圧をたたえて、自分に女学校の理事長の役を押し付けた誰かのことを思い出す。


 宮家の令嬢、梨小路さち子。大江すずりはなかなかに強力な、そしてこちらにとっては厄介かもしれない相棒を持っているらしかった。

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