託された手紙と日記帳
「お呼び立てして、申し訳ありません」
簡素ながら、床の間には季節の花が一輪活けられた客間に通されると、着物を着て身支度を整えた惠麻の姿があった。
ここ最近の惠麻は何かの病が良くなると、別の病が顔を出すといったことが続いていた。重くなったそれを知らされるたび、大江の家では信頼できる医師や薬の手配、滋養のつく食べ物を届けさせるなどしていたのだが、なかなか床を払うことはできずにいた。
だから今日、短冊とともに呼び出された文鎮は、したくもない覚悟を決めていた。てっきり寝床に案内され、寝間着姿で対面すると思っていたのだが、客間と聞いて意外に思った。そして、実際に対峙した惠麻の様子に、文鎮は胸をわしづかみにされたような気持ちになった。神々しいと言っても良いほど、気高い姿だったのである。
それは、惠麻がかつて宮中にあって皇子を産んだという雲の上の地位にあった名残りではない。己の魂の灯火が消えかけているのを、惠麻は悟り、受け入れているからだ。
そのこと自体に、誰を恨むでもなく、悲しんでもいない。ただ、まだその火が燃えているうちに、やらねばならぬことを成し遂げなければならないとの覚悟がうかがえた。
迷いなく、限られた命を、やるべきことのために使い切る──。その覚悟が、着物に袖を通し、帯を締め、髪を洗って整え、客間で背筋をまっすぐに伸ばして正座させるだけの気力を立ち上がらせているのだろう。
さらに白さの増した肌だけでなく、存在そのものが透き通り、この世とあちらの狭間にいることを示しているかのようだ。
あれから四年、すっかり大人びた冬斗ではあるが、まだ齢十二である。さらに聡くなり、己と母の置かれた立場も十分に理解した彼が、母の変化をどのように受け止めているのか、想像するだけで胸が痛んだ。
だが、感傷に浸っている場合ではない。限られた命の使い道を、さらに有益なものにするべく、一秒たりとも無駄にはできなかった。
それは、不器用ながら最後の一線はなんとか越えずに生きてきた、娘婿の短冊も察したことのようだ。決まりきった季節の挨拶を文鎮に任せ、身体を労わる言葉もなく、ただ惠麻の言葉を待っている。
その応対に満足したのだろう、惠麻は微笑んだ後に口火を切った。
「いよいよ十日後に、冬斗は船に乗ります。これまで、多大なるお力添えをいただきありがとうございました」
華奢な指を畳について頭を下げられ、不調法な男ふたりもあわてて礼を返す。お互いに顔を上げ、ひと呼吸おくと、惠麻は傍にあった蒔絵の箱を膝の前へと置き、蓋を開けた。
「冬斗への手紙をしたためてあります。わたくしに万一のことがあった場合にも、知らせることなく、月に一度、この手紙をあちらへ送り続けていただけますか」
惠麻の言葉をすぐには理解できず、文鎮は首を傾げる。だが、惠麻はそれを待たずに、今度は青灰色の風呂敷包みを開いた。
「こちらはわたしの日記です。女官として上がることになってからしたため始め、宮中で起きたことを記し、そして今になっても書き続けています。冬斗が外遊を終え、帰国した時に渡してやってください。何もかもを知るのはその時で良いと思うのです」
そう言って蒔絵の箱の蓋を閉め、風呂敷の紐を結び直すと、箱の上へと風呂敷をのせ、立ち上がった。風が吹けば飛ばされてしまいそうに儚い様子だったが、ふらつくことなく、文鎮と短冊の前へと座り、ふたつの荷物を並べて置いた。
「宮中の記録係を務めてこられた、大江家にこれを託します。冬斗が成人し、己の才覚だけで生きていけるものを身につけるまで、決して帰国させてはなりません。毎月届く文にあるように、ひっそりと暮らしている母のことは気遣い無用です。留学の支度を整えてくださった方々の恩に報いるためにも、ひたすら勉学に邁進するよう叱咤激励してください」
目が合うたびに引き込まれそうになる、青みがかった神秘的な色の瞳。久しぶりに至近距離で目を合わせることになった文鎮は、その澄み切った様に、彼の前途を妨げるものはたとえ母子の情であっても排除するのだという、悲壮な覚悟を思い知らされたのだった。




