やさしい内緒話
「西洋への留学、ですか」
「ええ」
耳を塞がれ、話が聞こえなくなったのに、不思議そうな目を向けてくる冬斗に、惠麻はにっこりと微笑む。三つほど年上なだけの衛藤の耳は塞がれないままだが、惠麻はそれをよしとしているのだろう。話を続けた。
「父がお雇い外国人の医師として、破格の待遇を受けていたことは存じています。お金があると少しでも新しくて性能の良い医療器具に買い換えてしまう人でしたから、暮らしはそれほど裕福ではありませんでしたが、サンドウィッチ用のパンとハムやチーズを手に入れるのに困ったことはありません。
診療所を弟に譲ってからは、大学の教授にもお迎えいただきました。故郷へ帰れば貴族のはしくれではありますが、これほどの待遇を受けられる家柄でもないと言います。西洋を知り、あちらの技術を身に着けていることがいかに強いか。だからこそ、冬斗には聞きかじりでなく、実際にあちらへ身をおいて学ばせたいのです」
急な思いつきではないのだろう。惠麻は膝に乗った冬斗の身体を揺らして退屈を防ぎながら、淀みなくそう述べた。
宮中の荒波を乗り越えてきた女性である。冬斗の、母の膝の上で機関車の玩具に夢中になっている様子にいじらしさを覚えるが、生半可なことは言うべきでないとの覚悟を決めて、文鎮は口を開く。
「そう遠くない将来とおっしゃいました。語学の耳を育てるのには、早ければ早いほうがよろしいでしょうな」
書物だけで異国語を学んだ文鎮は、文字の意思疎通はできても、口頭でのやりとりには苦労するのだった。あえて、まだ幼い冬斗の身を案ずる発言は差し控えると、惠麻は理解者を得たというように、晴れやかな表情になった。
「語学がある程度できるようになったら大学へ入れて人脈をつくり、それからは滞在する国をいくつか変えて、成人するまではあちらに身を置く。そんな計画でほうぼうに働きかけているところです」
「成人、というと、……十年以上も異国へおやりになるつもりですか?」
驚きについ声を荒げてしまうが、惠麻の平静さに我に返る。そして先ほどの失態を取り返す言葉を整える前に、普段言葉少なな短冊が先に口を開いた。
「英吉利語の土台ができれば、仏蘭西語も独逸語もそう苦労しないと言いますしね。何より」
「異国の地にあれば、つまらない諍いに巻き込まれずに済みます」
決定的なことを口にしたのは、それまで黙って聞いていた衛藤だった。その言葉に、惠麻はうなずいて見せる。
「今の冬斗の身を守るため、そして将来の冬斗を守り続けるための留学です。大江の家のお力添えも、何卒よろしくお願い申し上げます」
言い切った惠麻は、青い瞳に炎を燃やしたようにすら見えた。覆っていた冬斗の耳から手を離し、呆然とする男たちに向けて、すっと頭を下げたのだった。




