小さな機関車
「今日は何をお勉強したの?」
駆け寄ってきた息子を受け止め、惠麻は微笑む。
母の日本人離れした容貌を受け継いだうえ、聡明さから黙っていると年齢よりも遥かに大人びて見えるこの男児が、母の前では年相応の子どもに戻る様子を、文鎮は微笑ましく思った。
膝の上へのせ、毛先がうねって元気よく跳ねる息子の茶色がかった髪の毛を、惠麻は指でくしけずってやる。
おとなしくされるがままにしている冬斗が手にしている黒い物体に、青い瞳が注がれた。
「これは、機関車かしら?」
「短冊がくれました。自分でつくったというのですよ」
「まあ」
先ほど冬斗が駆けてきた廊下の向こうから、文鎮にとっては娘婿にあたる短冊が、眼鏡の奥の常に眠そうな目をしぱしぱとさせて、ちょうどこちらへやってくる。
その後ろには、冬斗の遊び相手兼従者としてつけた衛藤が、冬斗の風呂敷包みを抱え控えていた。
「いただいてもよろしいのかしら」
惠麻が恐縮しながら言うのに、少し距離をおいて縁側へと腰を下ろした短冊が、行儀良く膝の上で拳を揃えてうなずく。
彼女を前にすると、短冊が借りてきた猫のように大人しくなるのを、文鎮は首を動かして、緩んでしまった口元を見せないよう顔を背けた。
娘婿に迎える前からわかっていたことだが、この短冊という男は、大江の家で育った文鎮から見ても、風変わりな男だった。
大江の家へ来る前は自分で切っていたらしい髪はぼさぼさで、いつもどこかに蜘蛛の巣や木の葉が引っかかっている。いい歳をしてまだ書生の風体を続け、着物の下にシャツを着込んで、袴をつけていた。
娘婿なのだから大江の血ではないのだが、それでも本の虫には変わりなかった。それも、算術や暦学、測量やからくり、医者でもないのに本草学や医学書にまで手を出している。
とくにからくりの類は読んだそばから手を動かして、どこで集めてきたのかもわからない素材を組み合わせ、どこかをちょんと押せば、その先は勝手に動き出すような類のものを作り出すのだった。
短冊がつくる「がらくた」(と女中たちは噂する)は、とても彼の部屋にはおさまりきらず、書物を収めた蔵の横に小屋を作って収納している。
文鎮は自分が引き合わせたものの、娘の朱が、この男のどこを気に入って結婚を決めたのか、いまだ理解が及ばない。
それでも夫婦仲はむつまじく、朱の腹にはもうすぐ生まれてくる赤子の命も宿っているのだから良しとしている。惠麻への憧れは、朱への情とはまた別の種類のものらしい。
西洋の知識と技術は、とめどなく日本に流れ込んできている。それ以前から貪るように書物を読み、その知識を実際に動くものとして作り出していた短冊が、それに飛びつかなかったわけがない。
政府の金で外遊して帰ってきた男たちのように、滑らかに言葉を使いこなすことはできなかったが、そんな彼らですら歯が立たない難解な専門書を、短冊は何なく読みこなしていった。
いつしか、がらくたばかり作っていたはずの娘婿の知恵を求めて大江の家を訪れる客が、文鎮へのそれよりも数が多くなる日もあった。冬斗に与えた機関車の玩具(品質的には模型と言って差し支えない)を作り上げるなど、造作もないことだ。
そして、機関車の玩具の細部を飽きることなく眺めている冬斗もまた、短冊の語りに目を輝かせることが多かったから、文鎮はその教育係の役割を娘婿に譲っている。
たまに手綱を引かないとあやういのが短冊という男なのだが、そこは惠麻への憧憬と冬斗に流れる貴い血への畏敬もあって、技術に関する話になると熱がこもりすぎるくらいの暴走にとどまっていた。
「冬斗さまはたいへん賢くていらっしゃいます。できることなら上の学校へ進ませてやりたい、というのがわたしの考えではあるのですが」
ややどもり気味に切り出された短冊の言葉に、文鎮は目を見張る。ひとりで放っておけば、好きなだけ研究と実験を繰り返して、いつまでも自室から出てこない男の口から発せられた言葉とは思えなかった。
だが、その発言は理にかなっていた。専門学校から大学へと名前を変えた高等教育機関は、学科を整え、お雇い外国人を含めた優秀な教育者を揃え、各分野に造詣の深い専門家を輩出しつつある。
短冊たちの世代が歩まざるを得なかった非効率的な道が短縮され、それこそ鉄道の上をまっすぐに走る機関車のように、短い時間で快適な勉学の旅がかなうようになっているからだ。
とはいえ、冬斗を取り巻く事情がそれを難しくしているからこそ、大江の家で私的に教育を行っているのだが──。
なにせ、学問を机上の空論とせず、現実のものを作り上げる男である。承知した上で、それでも理屈上正しいからこそ、口火を切ったのだろう。
空気の読めない男だからこそ、言えたことかもしれない。この場で誰よりも空気が読める、まだ幼いながら、冬斗の完璧な従者となりつつある衛藤だけが、瞳に鋭い光を浮かべて大人たちの顔をうかがっていた。
文鎮が庭を眺めるふりをしながら、次の展開を待っていると。冬斗の元気よく跳ねる髪をくしけずりながら、血管が透けるように白い、だが労働をしている手でさりげなく冬斗の両耳を覆い、惠麻は口にした。
「そう時を待たずして冬斗を西洋へ留学させたいと思っているのです」
惠麻の言葉に、文鎮と衛藤はもちろん、空気を読むということを知らずに育ってきたであろう短冊でさえ、息を呑んだ。




