冬斗の時計工房
冬斗はひとり、細いピンセットを使って一度外した部品を、元の位置へと戻していた。
ここは、理事長室からさらに廊下を進んだところにある、冬斗が工房と名付けた場所だ。中庭に面し、南向きの窓からは自然光が差し込み、邸宅のうちでいちばん明るい部屋である。
間の襖を取っ払い、ふたつの部屋をぶち抜く形で広い空間を確保した。簡素だが大きな机に椅子をあわせ、冬斗が座る席にだけランプがあり、昼間でも細かい手作業を行う手元を照らしている。
時計に必要な部品は輸入品を用いるところから始めるが、国内で製造できる会社を探して提携し、場合によっては自社で製造することも考えていた。
そして「工房」と名付けた部屋は、雇った職人が最後の組み立てをして完成品に仕上げたり、新商品の試作品についての議論を交わす、鷹峯時計製造株式会社にとってもっとも大事な部屋になる予定だった、のだが。
うっかり女学校の理事長室を設けてしまったのが運の尽き。やれ、男の医者を入れるわけにはいかないから医務室を作れだの、女学生がしばらく医務室で寝泊まりする場合には男の職人がいてはいけないだの、あわれ鷹峯時計製造株式会社は看板だけ、冬斗の邸宅は花夢女学校に飲み込まれてしまったのだった。
間仕切りを設けて、複数の職人が作業に取り組めるようにあつらえた簡素だが大きな机は、そんなわけで冬斗ひとり分の作業場しかない。
余計な資金など一銭も使いたくない創業時にあって、無駄遣いをしてしまったことは反省しきりだったが、今日に限っては投資した甲斐のあるありがたい空間だった。
なぜなら、今の冬斗にはひとりになる場所が必要だったからだ。
冬斗の母の手紙と日記帳をもとに、大江の翁の孫娘であるすずりが“著しの儀”を行ったのは、この部屋だった。
職人用の机は、南にある窓を背にする形で壁際に作られている。今の冬斗が振り返れば、背後にはだだっ広い床があり、そこへ畳を敷いたのだ。
こちらで用意してあった硯以外の道具を、すずりは同室の令嬢・さち子の手を借りて適切な場所へと動かした。
冬斗が手を貸そうと申し出たが、不要だと断られた。文机を畳の端のほうへ動かし、朱い毛氈を中央へ寄せ、巻紙をあらかじめ広げて右端に重しを置いたくらいだったからかもしれない。
移動させたものの全景をしばらく眺めた後、職人用の椅子に腰掛けている冬斗のほうを向いてうなずいたすずりの瞳には、場所や道具が変わったことへの戸惑いや不安はうかがえなかった。
たっぷりと時間をかけ、持参した小ぶりな硯で墨を磨り終えれば、いよいよ“著しの儀”である。
話には聞いていたが、目の前で繰り広げられた光景には目を見張った。
『はばかりながら』
そう言って開いた冬斗の母の日記は八冊、手紙は百通にも及んでいた。
すずりは眼鏡を外し、すべてをめくっておそらく全頁に目を通したのだが、一頁あたりにさいた時間は、一瞬と言っていいわずかな時間だった。写真機で撮影する際にも、しばらくの間、じっとして待たなくてはならないというのに。
読み終えた日記帳と手紙を机の傍に積み重ねると、硯箱を持って巻紙のいちばん右端へと移動し、行儀良く正座する。
そうしてしばらく目を閉じていたかと思いきや、ある時、ふっと思いついたように筆を取り上げ、そこから一気に文字を書き殴り始めた。
あらかじめ書くことを決めておいたとしても、ここまで勢いよく、長文を書き続けることはできないだろう。冬斗がそう思うほど、一心不乱に文字を書き続けるすずりの勢いは止まらなかった。
梨小路の令嬢が心得たように、墨の乾いた巻紙を右端から床へとずらしていくうちに、すずりの手蹟が変化していくのがわかった。
冬斗がその変化の意図を理解するよりも早く、すずりの書く文字は母が日記に記していたのとまったく同じになった。目の当たりにして受けた衝撃に、呼吸が一瞬止まり、しばらく冬斗の身体はこわばったままだった。
そうして冬斗の頭が、目の前で繰り広げられている光景が現実であることを受け入れた頃。
書き殴っていた長い文章が途切れ、数行あけた真っ白い部分に、すずりが改めて筆を下ろす。書き上げ、筆置きへと筆を置くと、すずりは虚ろな瞳でこう告げた。
『これにて筆仕舞いです』
それだけ言い残すと、一本の三つ編みに束ねた長い髪の先のリボンをふわんと揺らし──。
すずりは、まだ墨の乾かない部分をうまいこと避けて、畳の上へと突っ伏した。
これもあらかじめ翁に聞かされていたとはいえ、冬斗は思わず立ち上がっていた。衛藤は音も立てずに移動し、すでにすずりの傍に控えている。脈を測るつもりだったのか、首のあたりに伸ばしかけた衛藤の手を、梨小路の令嬢が微笑んで制した。
そして、ずりずりとすずりの身体を畳の端まで引きずると、冬斗のほうを見て言った。
「お願いしますわ」
意図することがわかりかねて動けずにいると、梨小路の令嬢は微笑んだまま、圧を強めてもう一度言った。
「よろしく、お願い申し上げます」
冬斗はようやく察し、歩み寄って身を屈めると、寝息を立てるすずりを横抱きに抱き上げ、できたばかりの医務室へと運んだのだった。




