医務室の目覚め
すずりがまぶたを開くと、見覚えのない天井があった。
(はて……)
これまた覚えのない、真新しいシーツやかけ布の手触りを確かめながら思考をめぐらせるが、何か思いつくより先に、ぐうと腹の虫が鳴いた。上半身を起こそうとして、懐かしい身体のだるさを覚える。“著しの儀”を行った後のそれであった。
そこですずりは、ハッとなって起き上がる。
「硯は……!?」
「あら、お目覚め?ご心配なく、あの音も立てずに動く秘書がきれいに洗って乾かしてくださっていてよ」
声のしたほうへ首を向ければ、ベッド際に置かれた椅子から覗き込むさち子がいた。 半結びにした、耳の下あたりの髪がはらりと垂れる。
使い終えた硯がきちんと手入れされたと知って、すずりは安堵を覚えた。
「女学校の医務室として作られたお部屋なんですって。お医者様の診察が必要になった場合は、ここへ運ばれて行われるとか。非常事態まで男子禁制を貫くのね」
そう言って微笑むと、いつもより小さなスケッチブックをぱたんとたたむ。
(医務室……)
カーテンの揺れる開いた窓へと首を向ければ、朝の白みを帯びた清浄な光ではなく、黄色く色づいた昼の光に変わっていた。
「ことは無事に、運んだのかしら」
寝起き特有の声を発すれば、乾燥でコホッと軽く咳き込む。するとさち子は、ベッド傍に置かれた水さしからガラスのコップに水を注ぎ、手渡してくれた。
「ご心配なさらないで。寝落ちる前にしっかり『これにて筆仕舞いです』とおっしゃっていましたわ。すずりさんが書き上げたものを、例の、音も立てずに歩く秘書に、そっくりそのままお預けしましたから」
「そう……、ですか。ありがとう、さち子さん」
「秘書ではなくご主人のほうから、お目覚めになったら報告するよう言いつかっております。行ってきますわね」
そう言ってさち子はドアノブを回し、部屋の外へと出ていった。すずりは手渡されたコップから水を飲み、喉を潤す。
(ここでも“著しの儀”をやり終えることができた、らしいわ)
すずりの胸に、軽い自信のようなものが湧く。依頼主がいる以上、満足のいく結果が出せたのか、尋ねてみる必要はあるけれども。
依頼主から誰ぞの手蹟を預かり、眼鏡を外して頁をめくれば、すずりはそこに描かれた文字を読む、というより、その頁全体をそっくりそのまま写しとって頭の中へ放り込む。その作業を終えて、しばらく目を閉じていると、ある時ふと筆に手が伸びる。先端に墨を浸して紙へと下ろせば、勝手に筆が動いて何かの文字を紡ぎ出すのだった。
『はばかりながら』と口にし、手紙や日記を開いて以降は、すずりには自分というものがなくなる。それでも終わりの時は、強烈な眠気が襲ってくるからわかる。さち子が先ほど口にした『これにて筆仕舞いです』という決まり文句を絞り出すと、襲いかかる睡魔に抗うことなくまぶたを閉じるのが常の流れだった。
小遣い稼ぎをしていた時には、依頼主に明確な目的があった。いつも目が合う茶屋の娘は自分に気があるのか、生前は不仲だった故人は本音ではどう思っていたのか、云々。寄せられる依頼は文鎮の検閲が入るため、よほど変なものは事前に弾かれる仕組みだ。
書き“著し”、すずりが寝落ちして以降は青墨の出番である。依頼主に手渡すか、依頼主が希望すれば読み上げて伝えられる。小遣い稼ぎ程度ではあっても報酬を得ていたから、依頼主は満足して帰ったか、すずりは目覚めた後に著した内容とともに、青墨から共有されるのが常であった。
今回の介添えは、前回の加賀の令嬢たちに引き続き、さち子だった。加賀の令嬢たちの和歌から“著す”際には、すずりが何を頼もうとしているのかも確認せずに、ふたつ返事で引き受けてくれたけれども、今日のところはどう思ったのだろう。
せっかくの日曜日に、校長に呼び出され、理事長からの依頼に巻き込まれた。丸一日、ひたすら絵を描きたかったかもしれない。すずりだったら前の晩から夜更かしをし、たっぷりと寝坊し、顔も洗わず、寝間着から着替えもせずに、借りてきた本を読み耽りたいところなのに。
空になったコップを元の位置に戻したところで、すずりの視線に椅子の上のスケッチブックが目に入った。大きさからするに、懐に忍ばせておいたのだろうか。すずりの硯にはちくりと言ったくせに、自分も同様ではないか。
そしてすずりは、理事長室に入室し、冬斗にお目見えするやいなや、さち子の右手が空中スケッチに動いていたのを思い出し、クスリと笑ってしまう。
(たしかに絵になる方だったわ。とくに不思議な灰色の瞳……)
何度かまっすぐにこちらを見据えた、冬斗の印象的な瞳を思い起こした。
カーテンを揺らして窓から入り込んでくる心地よい風に前髪を揺らされながら、ぼんやりと天井を見上げれば、冬斗の灰色の瞳とよく似た切れ長の、だがこちらは青みを帯びた、複雑な色をたたえた別の瞳が浮かび上がる。
その瞳を通して注がれる、海のように豊かで深い慈愛の情の名残が、“著しの儀”を行ったすずりの身体にも残っていた。




