すずり筆を選ばず
「すずりさん。意気込みはたいへん結構ですけれども、あの儀式にはお道具類も大事なのではなくて?」
さち子に言われ、すずりははたと思い当たった。勢いよく伸ばした右手を、そろりと着物の懐に差し入れる。そして、忍ばせていた布包みを取り出した。
「これだけは、持って参りました」
すずりが言えば、さち子が興奮したようにひとえの瞳を見開く。
「たまにお胸がおかしな形をしている時があって、豆菓子か何かかと思っていましたけれど、まさか硯が入っていたなんて。でも、筆やあの目の覚めるような赤い毛氈は置いてきてしまったのでしょう?」
それはそうなのだ。すずりが部屋へ持ちに帰ることを申し出ようとしたところで、音も立てずに衛藤が進み出た。
「他に必要な道具類は別室にご用意しております。ご案内申し上げます」
そう言ってまた音も立てずにドアのほうへ向かう。そして、ドアノブを回して少しだけドアを開けると、傍に控えて居住まいを正した。
そこまで準備万端に、至れり尽くせり整えられているとは。すずりは楠校長へと視線を向けるが、しばらく厳しい表情を浮かべていた彼女が、励ますようにうなずいた。
すると今度は、鷹峯が立ち上がる。見上げたすずりは、改めてその日本人離れした背の高さと腰の位置に目を見張った。
「大江の翁からご教示いただいたとはいえ、あくまでこちらで揃えた道具です。うまくことが運ばない可能性についても承知しています。気負うことなく、いつも通りやってもらえればそれでかまわない」
鷹峯に言われ、すずりはその不思議な灰色の瞳が静かに澄み渡っていることに気づく。花夢女学校に通う良家で育った令嬢たちの瞳にも、似たようなところがある。感情を荒げることなく、思うところは胸のうちに秘めて表には出さない。誰がいつ自分を見ているかわからないから、いつ見られても良いように振る舞うことが染み付いている身分の人たちのそれだ。
(どちらかと言えば偲さんのほうがそれに近いのだわ。麗子さんは見た目はお人形さんのようだけれど、たまにものすごく強い目をする時があるから)
すずりがそんなことを考えているのを、迷っていると解釈したのだろうか。すっくとさち子が立ち上がり、すずりの腕に自分のそれを絡ませた。
「すずりさんの儀式にはお手伝いが必要ですの。わたくしもお供をさせていただきますが、かまいませんこと?」
にっこりと笑みを浮かべ、許可をとっているようではあるが、まったく引く気のない様子のさち子。すずりは、先ほどの頭の中で行った令嬢たちの性質分けにおいて、さち子を麗子の側に移動させた。
「もちろんです。邪魔になるようなら、わたしはこちらで待たせてもらいますが」
青灰色の風呂敷包みを取り上げ、すずりへと差し出しながら鷹峯は言う。すずりはそれを受け取り、再びその灰色の瞳を覗き込んだ後──、首を振った。
「これまで、依頼された方の同席をお断りしたことはありませんわ。墨を磨るところから始めるので長丁場になりますが、それでもよろしければいらしてください」
すずりが言えば、意外だったのだろうか。鷹峯は軽く目を見開いた後、青灰色の風呂敷包みを自分のほうへと引き寄せた。
「わたくしは……、ここで待たせていただこうかしら」
楠校長が首を傾げながら言うのに、すずりは失礼にならない程度に肯定の意思を示した。
「それではご案内します」
衛藤はドアを大きく開け、すずりとさち子は鷹峯の後に続く。ちらと振り返れば、背表紙に金文字で題字が刻まれた重厚な洋書と、銀のワゴンに重ねられた報酬の辞書が目に入った。
どちらも、なんとしても欲しい。そんな執着を胸に“著しの儀”へ臨むのはこれがはじめてかもしれない。
(弘法筆を選ばず、とも言うじゃないの)
すずりは自分で自分を励まし、持参した硯を着物の上から押さえると、帰りの人力車に洋書たちを積んで帰れるよう、心の中で腕まくりをしたのだった。




