ワゴンの上の報酬
「え……?」
予想だにしなかった展開に、すずりは素のまま、そう声を漏らしてしまった。青灰色の風呂敷包みと、鷹峯の端正な顔を交互に見比べる。
「わたしの母の日記と、箱の中には手紙が入っています。外遊している間に亡くなったため、さいごに立ち会うことがかないませんでした。日記については母の希望で、わたしが帰国するまで大江の翁が預かってくれていました」
「お、おじじさまが?」
かけられた追い討ちに、すずりは息を呑む。また口が水分を欲するが、風呂敷包みの存在が大きく、ティーカップに手を伸ばすまでに至らない。鷹峯と文鎮が面識があるというだけでも驚いたというのに、亡くなった母の日記を預かるまでの仲だとは。
(いったい、どういうことなのかしら)
考えを妨げるように、心臓がどくどくと不気味に大きく鼓動を立てて邪魔をする。
だが、ここですずりが頭を悩ませたとて、何も生まれない。事実は、鷹峯が品よく整った唇から淡々と紡ぎ出した通りなのだろう。
(皇后はもちろん今もご存命だから、側室のおひとりがお隠れになった、ということ?)
知らされていない公式記録を畳み掛けられ、すずりは混乱する。それでも、青灰色の風呂敷包みから視線を逸らすことはできなかった。
(大江の家に生まれながら、わたしが目を通していない記録の類が、この風呂敷包みの中に詰まっているとしたら)
としたら、ではない。おそらくそうなのだ。どくどくと鳴る鼓動が鎮まりきらぬまま、青灰色の風呂敷包みの結び目に手を伸ばしかけた時だった。
「報酬は用意しています。衛藤」
「はい、冬斗さま」
鷹峯が普段仕事をしているのであろう重厚なデスクのほうへ向かうと、衛藤が小さなワゴンを押して戻ってきた。その上には、分厚い洋書らしきものが数冊積み上げられている。
「仏蘭西語、獨逸語の辞書です。英語は授業で使っているものがあるでしょうから、英英辞典を用意しました。わたしの蔵書を読むのにも役立つはずです。どうぞ差し上げます」
鷹峯が言い終えると、傍に立っていた衛藤がいちばん上のものを取り上げ、すずりに手渡した。高級感のある臙脂色のそれは、たいそう頑丈な装丁で、何度めくってもびくともしなさそうな頼もしさがあった。
すずりが稼ぐ小遣いでは、一冊の洋書を手に入れることさえ、遥か遠い、終わりの見えない旅路だったというのに。見るからに高級な辞書が、同時に三冊も与えられるなんて、いったいどんな展開なのだろう。
震える手で重厚な表紙をめくれば、薄布のような透ける紙を挟んだ後、本文用紙からぷうんと魅惑的なインクの匂いがただよう。
(貸し出し、じゃなくていただける。しかも新品、だなんて!)
今のすずりにはさっぱり意味のわからない単語が羅列されていたが、めくってもめくってもぎっしりと文字がつまった頁を眺めるうちに、不穏だった鼓動はいつしかときめきに変わっていた。
「“著しの儀”は体力を消耗すると聞いています。これにはもうひとつ変わった趣味がありましてね。衛藤」
「はい、冬斗さま」
今度はドアへと向かい、一度部屋を出て、戻ってきた時には辞書とは別の、白い布が被せられたワゴンを押していた。辞書の乗ったワゴンで場所が埋まっているからか、楠校長とさち子の間あたりで止まると、全員の視線が注がれたのを確認した後、覆っていた白い布をパッと外した。
「まあ」
ただようあまい香りと、鮮やかな色合いの、すずりがはじめて目にする洋菓子の数々が所狭しと並べられていた。きらきらと輝くそれらに順に視線をやれば、泰西軒のメニューにあった、チョコレートケーキや糖蜜のタルトの類もいくつか見受けられた。すずりの喉が、ごくんと上下する。
「帰国する際に、衛藤がどうしてもというので西洋式のオーブンを持ち帰りました。たいそうな荷物で……」
鷹峯の話の途中ながら、すずりは辞書を抱えたまま勢いよく立ち上がり、右腕を天へ向けて上げる。
「ご指名ありがとうございます。大江すずり、“著しの儀”やらせていただきます!」
そう高らかに宣言すると、大人たちがぽかんとする中、さち子が一瞬目を見開いた後、クスッと笑いをこぼした。




