交響曲の最中の尋問
英吉利語について、体系的な学習を始めたのは花夢女学校に入学してからのこと。洋書の専門書を読みこなすのに十分な読解能力があるかは別として、すずりは高揚感の真っ只中にあった。
思わず立ち上がりかけたのを押し留めてくれたさち子の腕を戻し、ほうっと恍惚のため息をつくと。
「わざわざ日曜日にお呼び立てしたのは他でもありません」
表情と声色を改め、鷹峯理事長は間を置く。
その傍に、物音ひとつ立てずに、理事長室へと案内してくれた秘書の衛藤が控えた。鷹峯は日本家屋の応接間では少々狭そうなほど長い脚を組み直し、両手の指を交差した手を膝の上へと置く。
「あなたがたは、イ組の加賀麗子侯爵令嬢とその従姉妹・偲さんがお互いの立場を入れ替わっていることを知っていますね」
すずりは、放たれたど直球を、無防備に受け止めることしかできなかった。受け止めた、というよりは、その直球を顔面でもろに喰らったというほうが近いかもしれない。誤魔化したりとぼけたりする言葉も浮かばず、顔の半分以上を覆う大きな眼鏡の奥で、ただ瞬きするしかできなかった。
「わたしの秘書にはおかしな趣味がありましてね」
鷹峯が言えば、衛藤がスッと頭を下げて口を開く。
「先の日曜日、ご令嬢方がお出かけになった泰西軒にて、給仕の仕事をしておりました。その節はご来店ありがとうございました」
それだけ言い終えると、またすぐに口を閉じてしまった衛藤の顔を、すずりはまじまじと眺めてしまう。言われてみれば見覚えがあるような気がしたが、確信を持てるほどの記憶もなかった。不慣れな洋食の作法と、何を繰り出してくるかわからない麗子たちとの会話で粗相をしないことに精一杯だった。
こういう時、頼みの綱はさち子である。横でこぼれた衣擦れの音に、すがるように横目で様子をうかがえば、例のひとえの垂れ目を細めて微笑みを浮かべていた。
すうっと息を吸い込み、三日月型に上がった口角から言葉を発しようとした瞬間──。鷹峯が上等な布地の背広の腕を動かし、手のひらをこちらに見せて制した。
「加賀のご令嬢方の事情は、我が校への入学推薦状を送る以前から把握しています」
淡々と告げられ、さち子の膝の上でそろえた手がわずかに乱れたのがわかった。出鼻を打ち砕かれた、というところだろうか。それにしても、入れ替わりを承知して推薦状を送り、入学後も入れ替わりを続けるかの判断は本人たちに任せるというのは、あまりに大胆だ。
すずりの解せぬ感情が、表情に出たのだろうか。これまで言葉を発さずにいた楠校長が口を開いた。
「花夢女学校は、将来のお妃さま候補と、その方に宮中でお仕えする女官を育成することを目的とした学校です。学業の成績、寄宿舎での生活態度、課外活動への積極性など、さまざまな観点から最終的に学校として推薦する女学生の方々を選ばせていただきます。麗子さんと偲さんの場合は、少しばかり特殊な事情を加味しての判断になりますわね」
楠校長の言葉に、すずりは改めて、学校側の趣旨を思い知る。
授業料も食事代もかからず、おまけに洋書が読めると聞いてやってきた。集団生活も、ほとんどの科目も不得手であることはあらかじめわかっていたが、それを引き換えにしても、読み古した和書を開き、“著しの儀”で謎解きをして小遣い稼ぎを続ける、発展性のない生活に区切りをつける時が来たと思ったのである。
どうせ妃にも女官にも選ばれないと高を括ってもいた。いや、妃または女官になるのだとの覚悟を決めて入学してきた女学生は、実際のところどれだけいるのだろうか。入学式代表挨拶に選ばれた麗子、薙刀の演武に模範生として選ばれた偲でさえ、お互いの立場を入れ替わって、教師も同窓の女学生たちをも欺いているではないか。
『わたくしたちはふたりでひとつ。この先もずうっと、そうして生きていきますの。そのためにはこんなに都合の良いところはないと考えて、この花夢女学校に参りましたのよ』
よみがえる麗子の言葉。麗子と偲、仮にどちらかの結婚が決まれば「ふたりでひとつ」の生活を続けることは難しいのではないだろうか。
麗子を装う偲とて、侯爵令嬢の従姉妹姫だ。偲を装う麗子の女中のひとりとして、付き従うことなど許されないはず。
だが、帝の妃となれば別だ。ひとりが妃に選ばれれば、もうひとりは女官として宮中へ入ることも可能だし、ふたりとも女官になれば、多少の不自由はあるだろうが同僚として生きていける。
(そこまで考えているとしたら、さすがだけれど)
すずりがそんな考えに耽っていると、突然、部屋にジャーンというシンバルの音が鳴り響き、現実へと引き戻された。
だがそれも一瞬のことで、穏やかなメロディラインを担当する弦楽器が主役の座を奪い去る。クラシック音楽は食堂でも絶えず流れ続けており、すずりはその優雅なメロディとともに生活することに慣れつつあった。
蓄音機を動かすのに持ち場を離れていたらしい衛藤が傍に戻ると、楠校長がふたたび口を開いた。
「むしろ疑問なのはあなたの行動です、大江すずりさん。なぜ“著しの儀”を用いて、ふたりの入れ替わりを暴いたりなさったのです」
まさか、次は自分に向かって矢が放たれるとは思わず、すずりの身体はぴしりと固まった。




