↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
53/63

恍惚の金文字

(なんて立派で美しい本たちなのかしら)


 すずりは金文字で題字が刻まれた、重厚な洋書の背表紙を食い入るように眺める。大江の家の蔵にぎっしりと詰まり、日々、すずりが目にしてきたのは紐で綴じられた和書ばかりだ。


 大江の家に洋書の類はいっさいなかった。新聞はとっていたから、外交や貿易の事件や流行り物に関する情報は入ってきたが、原書を手にする機会には恵まれなかったのである。


 幼い頃、すずりは祖父の文鎮に向かってその理由を尋ねたことがあったが、はかばかしい答えは得られなかった。釈然としなかったすずりを手招きし、教えてくれたのは母だった。代々、宮中の記録係を務めてきた大江の家は、御一新の際に時代に乗り遅れ、落ちぶれてしまったのよと。


 当時、求められたのは西洋の最新の知識だった。宮中の歴史や有職故実などを学んでも、職にありつけない。ごくたまに大江の家へ尋ねてくる者があっても、窓際に追いやられたような冴えない風体の者ばかりだった。


 おまけに、大江家の跡取りである父親は、すずりが幼い頃に家を出てしまった。知識を売りにしてきたはずの大江の家には、新しい知識を得るための洋書を買う金がない。結果、新たな知識を得ることができないから、仕事はなくなり、さらに落ちぶれていく。その悪循環に陥って抜けられなかったようだ。


 すずりが“著しの儀”によってご近所のお悩みを解決するようになったのは、小遣い稼ぎのためだった。しかしながら、立身出世を夢見る者によって奪い合うように求められる洋書は、古本であってもたいそうな高値がついていた。かといって、困っているご近所さんから高額を巻き上げるのも気が引ける。結局のところ、すずりは大江の家にある古めかしい和書の世界へ戻らざるを得なかったのだ。


(見るからにお金がかかっている。きっと、中身も相当なものだわ)


 すずりが花夢女学校の図書室に入ったのは、入学式を終えてからのことだった。学校側が、式を終えるまでは校舎に立ち入らず、寄宿舎に待機することを命じていたのである。


 式を終えて時間ができると、真っ先にすずりはさち子を伴い、憧れの場所へと足を踏み入れた。だが、目を輝かせたのはごくわずかな時間だった。


(読んだことがあるものか、題名だけで中身の察しがつくものばかりだわ)


 たしかに原書も翻訳書もいくつかあったが、よくよく見れば大半は女学生向けの物語で、すずりの知識欲を満たすには物足りない品揃えであった。


(宮中の政にまつわる極秘の記録ばかり読んできたのだから、仕方のないことかもしれないけれど)


 そうは言っても、紙に文字が書かれたものであれば、なんでもありがたく読ませてもらうすずりである。図書室で許される上限まで本を借り、翌日のまぶたが重く垂れ下がるほどには夜ふかしを続けている。


(洋書が読めると聞いて入学したのに、話が違うわ)


 いや、一般的な女学生にとっては充実した品揃えで、小説の類まであるのは、名門の令嬢ばかりが通う女学校にあっては先進的だとも言える。これまで読んできたものの背景が違うすずりだからこその、独特の不満だった。


 それが、この理事長室に並ぶ書物ときたらどうだろう。その厚さといい、渋く重厚な装丁といい、金文字で刻まれた題字は、機械工学やら経営論やらひと筋縄ではいかなそうだ。許されるなら一刻も早く手に取り、頁をめくってみたい欲を掻き立てられるものばかりだった。


 おそらく、すずりが図書室で借りた本を中途に理事長室のそれらを読み始めたとしたら、図書室の受付員は、眉間にしわを寄せて首を傾げることだろう。


「表の看板をご覧になりましたか。わたしは花夢女学校の理事長の他に、自分で起こした時計製造会社の代表も兼ねています」


 理事長の声と同時にさち子に肩を揺すられ、すずりは現実世界へと引き戻された。いつの間にかテーブルの中央には銀の皿に盛られたクッキーが置かれ、すずりの前には芳しい香りの紅茶が注がれた華奢なティーカップ、シュガーポット、ミルク壺まで並んでいる。


 食い入るように洋書の背表紙を眺めている間に、いくつかのことが進行していたらしい。ちらりと楠校長を見ると、ややとがめるような視線を向けながら紅茶をすすっていた。


 すずりも素知らぬふりで、ティーカップをソーサーごと持ち上げる。少し苦味のある温かな紅茶が、洋書に心を奪われて乾いた口と喉を潤してくれた。ほうっとため息をつくと、鷹峯が洋書の棚へと軽く手をやる。


「これが気になりますか。外遊していた頃に集めたものを持って帰ってきました。専門的で、女学校へ通うご令嬢に楽しんでいただけるような内容ではありませんが、もしご興味をお持ちならお貸ししますよ」


 鷹峯の申し出の咀嚼にやや時間を要したが、頭よりも先に身体が反応した。


 洋書が読める……!!


 勢い余ってソファから立ち上がりかけたすずりを、すでに空中スケッチを終えたらしいさち子の腕が、なんとか押し留めてくれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。