ブーツは履いたままで
「靴はお履きになったままで結構でございます」
衛藤、と名乗ったその男は、その張本人が靴を履いたまま玄関を上がったのに目を見張るすずりにそう告げた。女学校も土足なのだが、どうしてもはばかられる。楠校長はと見れば、玄関前の敷物にしつこく靴の裏をこすりつけていた。
この建物内での振る舞いを理解しているが、やはり気が引けるのだろう。校長に倣って、同じようにブーツの裏を擦りつけ、心なしか汚れが落ちたような気がしたところで、辛抱強く待ち構えていた衛藤に続いた。
玄関を入ってすぐ、二階へと続く階段があるが、衛藤はそのまま一階を歩いていく。磨き上げられた革靴と女性陣三名のブーツが、板張りの廊下を軋ませた。
この建物は、以前は誰かの邸宅だったのだろう。床は清潔に磨き上げられ、土足だというのに塵ひとつない。壁には西洋の景色を描いた絵画が、随所に花瓶や異国の調度品が飾られ、豪奢ではないが趣味の良い空間がつくられていた。
廊下の奥まで進むと、木製のドアが現れる。これまで通り過ぎてきたのは、ガラス入りの引き戸ばかりだったが、こちらはドアノブがついていた。すんと吸い込めば新しい木の匂いがするから、ここだけ新しく付け替えたのかもしれない。
「こちらが理事長室でございます」
何の疑いもないようにさらりと衛藤は言うが、「鷹峯時計製造株式会社」の看板を見せられたすずりはどうも釈然としない。だが、帽子をとった髪を撫で付け、居住まいを正した校長の様子からするに、やはりここにうわさの理事長がおわすらしい。
無駄のない動作でドアをノックし、衛藤が声をかける。
「皆様、お着きです」
「入っていただくように」
ドア越しに聞こえた声は、青年のものだった。キイと音を立てて開くドアの向こうに現れるものに、すずりは緊張と興奮を覚えた。宮中の記録係を務めてきた大江の家で育ったすずりの記憶の中で、ぽっかりと空白になっている、十年の外遊から帰ってきたという、本来であれば第一皇子である青年とは──。
「日曜日にご足労いただき申し訳ありません」
窓から差し込む明るい光とともにすずりたちを迎えたのは、衛藤よりもさらに背の高い、上等な背広に身を包んだ青年だった。
耳の当たりまでの長さの茶色みがかった髪は、裾のところがうねりをもって跳ね上げている。面長で、鼻筋がしっかりと通った鼻は上品に高い。その下の唇は知的に結ばれ、微笑みを浮かべてはいなかったが不機嫌というでもなかった。そして、青みがかって見える瞳はめずらしい、灰色のように見える。
(冬が似合う)
春の盛りだというのに、すずりはその青年の背後に、しんしんと降り積もる窓の外の雪景色を思い描いた。
(こんな青年を男子禁制の女学校の理事長にだなんて、お血筋は申し分ないでしょうけれど、上の方々は何を考えているのかしら)
そんなふうに考えたすずりの目の端に、何か動くものが入り込んでくる。咄嗟にさち子を見れば、その右手が忙しげに空中スケッチを始めていた。
(これだけの美形じゃ、仕方ないことではあるけれど)
すずりはさち子の手をつかんでスケッチを無理矢理に封じ込めた。さち子も我に返ったようになるが、手のほうはまだ抵抗が残っており、不満そうである。
すずりとさち子がそんなやりとりをしているうちに校長は、挨拶を済ませていた。
「こちらが梨小路さち子さん、あちらが大江すずりさんですわ」
「理事長の鷹峯です。どうぞかけてください」
そう言ってソファを示した五本の指は、すらりと長いが指先はごつごつとして固そうだった。完全に洋式のソファにすずりとさち子が腰を下ろせば、目の前の棚には、金文字で英語の題字が刻まれた、重厚な装丁の洋書が整然と並べられていた。




