未遂のニッキ棒
「それでは本日の授業はここまで。次回はお出しした課題の答え合わせから始めますので、お忘れになりませんように」
教師の言葉に、起立・礼の声がかかる。
「それではごきげんよう」
「ありがとうございました」
女学生たちが髪に飾った色とりどりのリボンを揺らし、教員に向かって頭を下げる。その中のいくつが、入学式に雛菊に結ばれて贈られたものだろう。教員が退室して廊下の向こうへ去っていくと、女学生たちは椅子に着席して机の上を片付ける者、席が近い者に話しかける者など、思い思いの行動をとり、教室内は華やかにざわめきが訪れる。
今日も今日とて、夜更かしで寝不足気味だったすずりは、数学の授業の最中に眠気と戦い、かろうじて勝利した自分を褒め、机に突っ伏す。
「ご覧になって。次はどちらかの組の皆さんが体操の授業のようよ」
「手には薙刀をお持ちだわ。ついになぎなた体操をなさるのね」
「演武をなさった偲さん、本当に凛々しかったわね」
「そういえばあの時のあれはやはり、偲さんが瓜生先生を負かしてしまったということよね?」
「しっ。それはおっしゃってはいけないことですわ」
「でも、誰が見ても明らかでしたわ。ご立派でしたわねぇ」
いつの間にか廊下へと出て、窓から校庭を見下ろす女学生たちが、そんな会話をかわす。顔の半分以上を覆う眼鏡の下のまぶたが降りていくのに逆らわずにいたすずりは、偲の名が出たところでぱちりとまぶたを開いた。
「起きていて?すずりさん」
背後からかけられた声とともに、開いたすずりの前にひょいとニッキ棒が差し出された。独特のあまい香りがただよい、すずりはそれを手に取りながら身を起こして振り返る。すると予想どおり、同じくニッキ棒をかじるさち子がいた。
「そろそろわたくしも身体を動かしたくなってきましたわ。楽しみですわね、なぎなた体操」
「わたしはずっと演武の見学が続き、実際に体操をしなくて良くなりはしないかしらと思っています」
ニッキ棒を口に含み、乾燥した固いそれを奥歯で噛み締めながらすずりは言う。すずりの言葉にクスッと笑いを漏らしたが、垂れ目ぎみのひとえの瞳に含みがあることに気づく。
加賀麗子と偲の誘いで泰西軒でビフテキをいただいたのは先の日曜日。バターたっぷり、表面が香ばしく焼き上げられた肉の味を思い起こすと、口の中のニッキ棒がやわらかくなる。
『わたくしたちはふたりでひとつ。この先もずうっと、そうして生きていきますの。そのためには、こんなに都合の良いところはないと考えて、この花夢女学校に参りましたのよ』
加賀麗子はそう言い切ったが、それ以上説明を重ねることもなく、すずりとさち子に入学の動機を尋ねることもなく、給仕を呼んでデザートを促したのだった(すずりはあわてて冷めたビフテキを食べ切った)。
すずりの感動はビフテキで終わりではなく、はじめていただくババロアと苦い珈琲の後、帰り際にお土産として洒落たクッキー缶の入った紙袋をいただいたところまで続いた。
もちろん帰りは自動車で校門前まで送ってもらったのだが、談笑はしたものの、一貫しているのはあれきり加賀の令嬢たちから、きわどい話題が持ち出されることはなかったことだ。
寄宿舎へ着き、すれ違う女学生たちからチラチラと視線を向けられながら、一階と三階へ別れて部屋へ戻り、着慣れないワンピースを脱いでいつもの着物に着替えた。お土産にいただいた缶の蓋を開けてみれば、魅惑的なあまい香りのただよう黄土色と褐色のクッキーが交互に詰められていて、すずりは思わず手を合わせたものだった。
そこまで盛りだくさんの日曜日の外出だったが、さち子はあれ以来、加賀の令嬢たちの話を自分から持ち出すことはない。もちろん、すずりからもだ。借りたワンピースを身につけ、加賀の令嬢たちと外出したことをクラスメイトから尋ねられることもあったが、さち子がうまく受け流してくれた。
(やっぱり、さち子さんは違う)
今回の加賀の令嬢たちとのやりとりから、すずりのさち子への信頼は増している。“著しの儀”の介添えを頼んだ時には、やむを得ず切羽詰まっていたというのもあるが、大丈夫だろうと思ったすずりの勘は正しかったことを、ニッキ棒の独特の香りとともに噛み締めていた、その時のことだった。
今度は廊下側にいた女学生たちがざわつく。さち子が鮮やかな手つきですずりの手からニッキ棒を奪い去り、懐紙に包んで懐の中へしまいこんだ。まだ口の中に肉桂の香りが残ったまま、呆然としていたすずりだったが、高柳教頭の登場に姿勢を正す。
心の中で、はてと首を傾げる。高柳教頭の受け持ち科目は礼法だが、次の授業は地理だったはずだ。だが、教頭の前ではそのそぶりは見せてはいけないことを、さすがのすずりも知っていた。それでも、戸を開けた高柳教頭がまっすぐこちらへ向かってくるのには動揺を覚える、が。
「大江さん、梨小路さん」
まさか、来訪の目的が自分たちだったとは。すずりは一瞬さち子に視線を向けた後、立ち上がった。
「ごきげんよう、教頭先生」
朗らかな笑顔で作法通りの礼をするさち子に、教頭はうなずいて見せる。すずりも不器用ながら、それに続いた。
「おふたりとも、次の日曜日に朝食を終えたら校長室にお越しください。校長先生よりお話があります」
それだけ言うと、高柳教頭は教室内を見渡す。廊下側の窓辺に群がり、校庭のなぎなた体操の準備を眺めていた女学生たちも、いつの間にか手のひらを重ねて微笑んでいた。
三角形の眼鏡をくいっと持ち上げ、洋装の裾を翻して高柳教頭が教室を後にすれば、次の授業の始まりを告げる鐘が鳴る。
何かやらかしただろうか。居眠りがバレたのなら、心当たりがありすぎる。だが、そうなるとさち子まで呼び出されたのは?同室の連帯責任だったら申し訳ない。などと、胸に不穏な気持ちが満ちるのを覚えながら、すずりは机の上に地理の教科書を準備したのだった。




