月下の立ち聞き
「麗子に春宮妃の話が来ている?」
お殿様こと、加賀侯爵の書斎から漏れ出た声に、麗子と偲はぴたりと足を止めた。
夏の盛りの満月の夜。麗子と偲は、昼にたっぷりと午睡をむさぼってしまったこともあって、寝付けずにいた。
抜き足差し足、寝静まった屋敷の廊下を歩き、庭へと出てふたりで月を眺めながら冷えたサイダーでもいただこうと考えたのである。翻訳ものの物語で、寄宿学校の女学生たちが木いちごのジュースで同じことをしているのを読んで、自分たちもやってみたくなったのだ。
麗子と偲は、揃いの西洋式の寝間着を身につけていた。これも新しもの好きの侯爵が買い与えてくれたもので、涼しくふんわりした素材の裾と首周りに、寝心地が悪くならない程度にたっぷりとフリルがついていた。あちらの言葉では、パジャマというらしい。
幼い頃はワンピースはじめ、洋服を着るのを拒んでいた麗子であったが、ふたりで揃いのものを買い与えられるうち、次第に袖を通すようになっていった。
パジャマの裾が触れ合うほどに近い距離で、麗子と偲は顔を見合わせる。お月見サイダーはいったんあきらめ、ドアの影に身を潜めて、書斎でかわされている不穏な話に耳を傾けることにした。
立ち聞きなどはしたなく、侯爵令嬢たちのやることではない。だが、今書斎でかわされている会話は、そのはしたないことをしてでも知っておかなければならない類のもののようだというのは、麗子も偲も共通見解のようだった。
「そうなんですのよ、あなた。どういたしましょう」
こちらは絹の寝間着の上に、夏の盛りであっても身だしなみを整えるためガウンを羽織っているであろう、母の声がする。お肌を若々しく保つためだと言って、夕餉を終えればさっさと床へ入ってしまう人だったから、この刻限まで起きていて、しかも寝間着のまま寝室の外へ出ているというのは余程のことである。
麗子と偲の細い喉が、ほぼ同時にごくりと鳴った。
「どうするって、あちらはどれほど本気なんだ。宮家や五摂家の姫君もいらっしゃるだろうに、大名上がりの当家に声がかかるとは。例のフォトガラフィーが出回ったのがいけなかったのか」
加賀侯爵の言葉に、麗子と偲はふたたび顔を見合わせる。幼い頃に、父の知り合いの西洋人から贈られたワンピースを身に包んだ偲の姿を、写真家を呼びつけて撮影し、贈り物の礼として送っていた。するとその偲の姿に喜び、その後も定期的に洋服、ある程度成人してからは夜会服まで贈られてくるようになり、その礼に写真を撮って送るやりとりを継続していたのである。
ちょうどその頃、外交と西洋化の誇示を目的に、夜な夜な西洋式の館で夜会が開催されていた。侯爵夫妻に伴われて、麗子と偲もドレスを身につけて同行することもあった。
するとどうしても目立つのが、偲である。洋装の写真が出回っていたのか、事前に偲のことを知る者も少なくなく、加賀侯爵一家が夜会に参加するたびに、ひとこと偲に挨拶をしようと列ができるのだった。
「きっかけにはなったかもしれませんけれども、今回、妃候補の話が来ているのは麗子なのですわ」
「……それは、偲のことを麗子だと思っているのではないのか?」
自分たちの名前がやりとりされ、麗子と偲は、夏物の寝間着からむき出しになった手をどちらからともなくつなぎ、指を交差する形で絡め、強く握り合う。
「違いますわ。家柄や血筋のほか、薙刀の名手として日々鍛錬を積み、心身ともにたいそう壮健であることから推挙するとあります。“麗子”が誰なのかを、きちんと把握してのことです」
「……麗子はわたしたちの自慢の娘だ。だが、世間の目を引くのは偲のほうだろう。夜会でも偲を侯爵令嬢だと思い込んだ連中が、ひっきりなしにダンスに誘うじゃないか。……まさか」
侯爵夫妻の声色とやりとりから、妃候補としての推挙をふたりがまったく歓迎していないことがわかる。麗子と偲は、つないだ手を強く握り合いながら、続きを待った。
「どうやら例の話、政府の方々は本気で取り組まれるようですわ。西洋に倣った一夫一婦制を取り入れ、次の帝になられる方から側室の類は廃止する、と」
「……それが華族の役割とはいえ、そのような役割を、かわいい娘の両肩にあえてのせようとする親が、どこにいる」
侯爵が言葉とともに吐き出した深く長すぎるため息に押されたかのように、ふらついた偲の華奢な身体を、麗子がしっかりと受け止めた。




