革張りの日記帳
「お待たせして、失礼しました」
それほど時間がかからずして文鎮が戻り、冬斗は安堵を覚えた。着古した着物の袖からのぞくしわの増えた手には、青灰色の風呂敷包みが抱えられていた。
冬斗のそろえた膝の前にそれを置き、よいしょと元いた位置に腰を下ろす。そして、すっかり冷めた茶をすすった。
「そちらの品をお持ちください」
「……今、開けてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。あなたさまのものですから」
幼い頃にここを訪れた際に、何か忘れ物でもしたのだろうか。十年の時を経て、まだ預かっていてくれたのかと思うと冬斗は恐縮した。
結び目を解き、風呂敷を広げてみると現われたのは何冊かの、革張りの帳面だった。表紙の黒い革は、よく使い込まれた形跡があり、年数を経て味が出てきている。
「中を見ても?」
「はい。あなたさまのものですから」
文鎮に繰り返され、冬斗は気持ちを落ち着けてそのうちの一冊を手に取り、そっと頁を開く。とたん、飛び込んできたインクの文字に見覚えがあった。読み進めれば、冒頭には必ず日付が記載されており、すぐにその手蹟の持ち主の日記であるとわかる。冬斗は、先ほど落ち着けたばかりの気持ちが、胸の激しい鼓動とともにすっかり乱れているのを自覚していた。
「母の、日記でしょうか」
「はい」
文鎮は短く肯定すると、窓の外を眺めながら続ける。
「帰国された際にお渡しするようにと、大江の家でお預かりしておりました。あなたさまの外遊が終わるまでは、たとえ自分が儚くなられたとしても、ここへ留めておくようにと。毎月届いていた文とは、また別の趣が綴られていたのかもしれませんな。異国の地にあられた年若いあなたさまの心の支えになるであろうそれらを、お母上さまのお言いつけに従ってお送りしなかったことが本当に正しかったのか、今でも悩み続けておりますが」
乱れた呼吸と鼓動を抱えたまま、冬斗は次の頁をめくる。流麗な文字で庭先の景色や花瓶に活けた花などを描写しながら、その日あった出来事に加え自分の考えを述べてはいる。別の趣と文鎮は言ったが、何頁先へとめくっても、弱音や愚痴には行き当たらなかった。
「こちらは死の間際まで、書き続けたのでしょうか」
「さいごまで気丈に振る舞われていらっしゃいました。ペンを持つのが億劫になると、語って聞かせて女中に書かせていたようですが」
「そうですか」
冬斗は、まだ幼かった頃に傍らにあった母の姿を思い起こす。
女性にしては長身で、結んだ帯の位置が女中より遥かに上にあった。袖や襟元からのぞく肌は血管が透けて見えるほど白かったが、指先は白魚にはほど遠かった。自ら台所に立って料理を作り、繕いものもし、井戸の水を汲み上げたり、庭の畑で野菜を捥ぐこともした、働き者の手だったのだ。
本人の書く文字とは不思議なものだ。うぐいす餅ではよみがえらなかった記憶が、冬斗の頭と胸へ溢れ出てくる。指は先へ先へと急ぎたがるが、一文も、ひとことも漏らさずに目を通し、行間までも咀嚼したい気持ちから、冬斗は焦る自分の心をなんとか制御した。
そしてようやく、自分を見つめる文鎮の視線に気づく。どんな顔をして母の日記を読んでいたのだろう。冬斗は無防備なまま素顔をさらしていた時間を恥じるが、文鎮は意外な言葉を口にした。
「それを、すずりにお見せになるとよろしいでしょう」
まだ母の思い出の余韻に浸る冬斗は、すぐには意味がわからなかった。
「……これを?」
かすれる声で冬斗が問い掛ければ、文鎮は淡々と続ける。
「すずりをお使いになるか否かは、“著しの儀”を直にご覧になってからお決めになっても遅くはないのではないかと思います。それから」
文鎮が部屋の向こう、廊下へとやった視線をたどれば、冬斗の気づかぬうちにざんぎり頭の青年が控えていた。




