うぐいすの頬
「帰国のご挨拶が遅れたうえに、突然お邪魔して申し訳ありません」
客間に通された冬斗は、正座をし、畳に手をついて頭を下げる。和室での作法には十年の空白がある。その間、冬斗は日本の成人男性の平均を超えてすくすくと育ってしまい、正座した脚や畳に手をついた腕の使い勝手がわからず、戸惑った。
しかしながら文鎮は、そんな冬斗の様子をにこにこと眺め、首を振った。そして、無骨な手をつき、作法の理屈などかまわないというように気持ちよく頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました。ご立派になられてのお戻り、うれしい限りでございます」
顔を上げた文鎮の目尻に光るものを発見し、冬斗は戸惑う。あまりに素直に喜ばれたことにこそばゆさを覚え、ひと呼吸おこうと、冬斗は開け放たれた障子の向こうの、庭を眺めた。
大きな池があったような記憶があるが、今の歳になって改めて見れば、植えられた木や石灯籠も含め、こぢんまりとした印象だ。春の陽気の中、鳥が数羽飛び交い、ぴちちちとさえずる声が響いていた。
「外遊はいかがでしたかな。といっても十年の歳月ですから、語り尽くせぬ思い出がおありでしょうが」
文鎮の問いに、冬斗は視線を戻す。気づけば盆を持った女中がおり、茶菓子と湯気の立つ湯呑み茶碗が目の前に置かれた。
「立派に成人なさった今では好みもお変わりかもしれませんが、昔お好きだった、しぐれ堂の菓子をご用意しました」
文鎮が菓子皿を持ち上げ、黒文字をとって菓子を口に含む。視線で促されて同じように持ち上げれば、上にきな粉がはたかれた菓子がふたつ並んでいた。
「うぐいす餅です。最近ではよりうぐいすらしく見せようと、青大豆を使ったものも出てきているようですが、昔ながらのきな粉のものをご用意しました」
「おいしいです」
冬斗ははたかれたきな粉の香ばしさと、求肥のやわらかさと、中に包まれた餡のあまさを堪能して飲み下した。文鎮が言うからには、かつての冬斗はこの和菓子の味を好んだのだろう。
だが、口にしたことで突如として、昔の記憶のあれこれが湧き上がってくるというわけではなかった。ただし、上品なあまさのその菓子はよくできているとは思ったけれど。
「こちらでのお暮らしはいかがです。西洋は工業化でいろいろと進んでいるでしょうから、欧化が進んだとはいえ、戸惑われているのではありませんか」
茶をすすりながら言う文鎮に、冬斗は首を振ってみせる。
「西洋諸国も何もかも完璧というわけではありません。外交だ、工業化だというのであれば良いかもしれませんが、日々の暮らしという点では、こちらのほうが過ごしやすいようにも思います。あちらでも一緒だった衛藤が何もかも取り計らってくれているわけですが」
「あなたさまにあれをお付けしたのは、間違いではなかったようだ」
翁からの評価に、衛藤のやつはどんな反応をするだろう。めずらしく別行動をとっている忠実な従者にして秘書が、また得意の変装をして何やら探りを入れていることに思いを馳せ、冬斗はもうひとつのうぐいす餅を口に頬張った。
西洋では、プディングやクリームケーキ、チョコレートの類も口にした。繊細な洋菓子は衛藤の興味の琴線に触れたようで、どこかで新しい味に会うと、どこでどうやってか作り方の手順を仕入れ、知らぬ間に試行錯誤を重ねて完成品に仕上げ、素知らぬ顔で冬斗の夕食の最後にデザートとして提供してきたものだった。生地が正しく膨らむかどうかは、材料や温度が正確であるかが重要だというから、化学の実験のようなそれが、衛藤の性格に合っているのかもしれない。
こうして積極的に希望したわけでもないのに、あまいものの舌が肥えてしまった冬斗だが、久方ぶりに口にした求肥の食感には感動を覚えた。西洋で食べたあまたの甘味の中にも、これに似た食感のものはなかった。ほんのりとあまみをふくんだもちもちとした食感は、まるで赤子の頬のような──。
『そんなにお気に召したのでしたら、その子は冬斗さまに差し上げましょう』
そこまで連想したところで、冬斗は我に返る。この客間にも、文鎮にも、懐かしいものを覚える。
だが、冬斗は十年の外遊を経てさまざまな変化を遂げ、あたりまえだがここで寛がせてもらった子ども時代のそれではない。さらには、気ままだが有無を言わせぬ弟によって、新たな義務を課せられた。それを全うするには、翻ってまたこの家と文鎮の力を借りる必要があると考え、今日は単身、ここへやってきたのだ。いつまでも思い出にばかり浸ってはいられない。
「翁。本日はお願いがあって参りました。わたしに、孫娘であるすずりさんをお貸しいただきたいのです」
庭を眺めながらうまそうに茶をすすっていた文鎮の首が、ゆっくりと冬斗のほうへ向けて曲げられた。




