拒絶する蔵と赤ん坊
冬斗は自動車の後部座席に腰掛けて、窓の外の景色を眺めていた。
帰国し、花夢女学校の裏、道を一本挟んだところにあった邸宅を事務所兼自宅として生活を始めて数ヶ月が経った。衛藤は万事心得ていて、ベーコンエッグにバターブレッドの朝食を用意しながら、夕食には焼き魚に糠漬けを添えたりとうまく和洋折衷にするものだから、十年ぶりの日本での生活にうまく馴染むことができたのだろう。
(言うほど、街へ繰り出しているわけではないが)
帰国後は時計製造・販売会社を設立、自ら経営する計画を立てていた。外遊中に構想を立てていたとはいえ、十年ぶりの祖国はやはり勝手が違う。出鼻をくじかれそうになりながら、日程や資金繰りの計画を立て直しているところである。
冬斗と衛藤はふたりして、いわゆる“遊びがない男”だ。打ち合わせで外出し、ついでに食堂へ寄って昼食をとっても、その前後の仕事のことばかり考えていて、街並みや店の名前どころか、何を食べたかすら覚えていないのが冬斗という男だった。
本日の目的地である麹町には、帰国後はじめて訪れる。持参した仕事の書類に目を通すこともできたが、あえて冬斗はそれをせず、車窓から街並みを眺めることにした。記憶をたどるためである。
(たしかに、どこか懐かしいような気がする)
元武家屋敷の塀が続く道の対岸には、すっかり花が散ってしまった桜並木が続いている。徐々に住宅地として街並みが落ち着いていくにつれ、変わらず残る店や邸宅を発見しては、驚きを覚えるのだった。
少年だった頃の冬斗は、来客を待つ立場にあった。それでもこれから向かう目的地には、何度か足を運んだ記憶がある。
その家の客間に接した庭には池があり、縁側で足をぶらぶらとさせて、七輪で焼いた餅や干し柿をいただいた。そこから廊下の角をいくつか曲がって奥へと行けば、畳にまで煙草の匂いが染み付いた部屋がある。主であるひげの翁は、恐縮して入室を拒んだが、冬斗自身はその使い込まれた煙草盆がある部屋が好きだった。
そして、翁の部屋からさらに奥へ、薄暗い廊下を通って裏庭へ出れば、どんと重厚な蔵が構えている。その家の者しか入ることができないというその蔵へ、特別に入れてもらったことがある。目が慣れるまで時間がかかる暗いそこは、少しカビ臭く、さらに濃厚に紙と墨の匂いがただよっていた。
視界に飛び込んでくるのは整然と並べられた大量の書物で、その蔵へ入った者を圧倒するほどだ。翁の許可を得て、いくつか手に取り頁をめくってみたが、古めかしい崩し字や漢文で、事務的な記録がしたためられているだけで、少年だった冬斗にはおもしろみが感じられなかった。
その蔵の古めかしい書物たちは、冬斗の存在を歓迎していない。そんなふうに感じ、勉学への意欲はありながらも、底知れぬ恐怖を覚え、二度とその蔵へと足を踏み入れることはなかった。
(あの蔵へ入ることを許された、いやむしろ、蔵のほうが受け入れを歓迎したであろう大江の令嬢が、花夢女学校へ来ている)
懐かしい記憶に、真新しい情報を差し込んだところで、冬斗の頭に突如として浮かび上がった場面があった。
***
『冬斗さま、重くはありませんか』
煙草盆と同じ匂いをただよわせた翁が、背後から冬斗を覗き込む。冬斗の腕の中には、ふくよかな頬まで丸ごとおくるみに包まれ、すやすやと眠る赤ん坊がいた。
『重くはないよ。だが翁、赤ん坊というのは不思議だね』
『不思議、ですか』
『ずっと見ていられる。あたたかいし、良い匂いもする』
『そうですな。かわいいものですな』
それでも冬斗にはわかっている。赤子はいつか眠りから覚めてしまうし、腹が減ったりおしめが濡れたりしたら、母を求めて泣き喚く生き物だ。だから、いつまでも自分だけで独占していられるものではない。良い匂いも、ほどよい重みも、あたたかさも、手放さなくてはいけない。
それでも目覚めて泣くまでは、冬斗はその赤子を抱いていたかった。理屈ではわからないが、自分から手放すことができなかったのだ。
どうかもう少し眠っていておくれ。冬斗が食い入るように赤子を眺め、通じるはずのない願いを込めると。
『そんなにお気に召したのでしたら、その子は冬斗さまに差し上げましょう』
唐突な言葉に冬斗が顔を上げれば、翁は目を細め、にこにこと微笑んでいた。
***
唐突に脳裏を過ぎった、おそらく妄想ではないやけにくっきりとした思い出の場面に、冬斗はまた驚きを覚える。
(子どもだったわたしの機嫌をとろうとした戯言だったのだろうが、おかしなことを言ったものだ)
苦笑し、冬斗は茶味がかったくせ毛の頭を振る。
冬斗は、その翁がとても好きだった。あの蔵の膨大な書物によって得た博識をもとに、幼い冬斗を的確に導き、指導してくれた。躾のためにたまに厳しい顔を見せることはあったが、基本的には冬斗にあまく、かわいがってもらった。
冬斗にとってあの煙草の匂いは、包み込むような愛情と無邪気な好奇心が満たされる満足感の象徴だった。
「文鎮」
冬斗はかつて世話になった翁の名を、ぽつりとこぼす。それを聞き取ったのか、運転手がサイドミラー越しに冬斗へ視線を向けた。
「そろそろ着きます」
言葉どおり、かつて見たことがある門構えが自動車の窓越しにあらわれた。目的地に近づいた自動車が速度を落としていくうちに、門の前に佇む老人の姿が目に入る。
頭の上半分は髪の毛一本もなくつるりとして、代わりにあごのひげが豊かになっている。あの頃は頼もしかった体格が、ひとまわり小さくなっているだろうか。
それでも冬斗には、その老人が誰であるかはすぐにわかった。自動車が止まり、運転手にドアを開けてもらい、冬斗は車を降りる。
門の前で待ち構えていた大江文鎮が、冬斗に向かって深々と頭を下げた。




