赤葡萄酒の掛け合い
泰西軒の洋食レストランの、入り口を入ってからもっとも奥まった壁際の席で、ひとりの男が食事を楽しんでいる。
テーブルには前菜の大皿があり、スモークサーモン、肉のパテ、野菜のゼリー寄せ、エビのカクテル、鶏ハムなどの冷菜が芸術的に盛り付けられている。葡萄酒のボトルが置かれ、瀟洒なワイングラスは半分ほど、深い赤紫色をした液体に満たされていた。
まだ午前の清潔さの余韻が残る日の光が豊富に差し込む席で、たっぷりと時間をかけて味わい、舌鼓を打っている青年は、他ならぬ春斗であった。
その席は絶妙に、すずりら四人の令嬢たちからは死角になっており、一方の春斗からは令嬢たちの挙動が丸見えになっている。春斗はすずりたちの四半刻ほど前に到着し、泰西軒の総支配人の案内を受けつつ勝手知ったる様子でその席へと腰を下ろした。窓から見える景色に目を細めた後、蓄音機から流れる音楽に耳を澄ませた。
令嬢たちにポタージュが運ばれ、小鳥が木の実を啄むようにスプーンを口元へ運びながらきゃっきゃと談笑するのを、こちらも笑みを浮かべながら、葡萄酒のグラスを傾けている。空になったグラスをテーブルに置き、膝の上に置いたナプキンを取り上げて口元を拭えば──。
「失礼致します」
物音ひとつ立てずに給仕が現れ、春斗のグラスに葡萄酒が満たされた。
「ありがとう」
春斗は親しみのこもった笑みを浮かべてグラスを持ち上げるが、給仕はにこりともしない。
「外遊中にあちらのレストランで奉公でもしたのかな。板についているね」
蓄音機から流れるクラシック音楽の、トランペットが高らかに鳴り響いたところでちょうどそう尋ねた。瓶の口を拭い、食事の邪魔にならない位置に置いた給仕──こと衛藤は、げんなりとした表情を隠さず、一礼した。
「仕事がありますので、これにて」
「客と話をして楽しませるのも給仕の仕事だろう。それに、ここからは令嬢たちの様子がよく見えるし、会話の内容も耳に入ってくる。君が皿を下げるふりをして、一瞬だけ令嬢たちの顔を盗み見るよりはよほど得られるものが多いと思うよ」
普段の衛藤なら、そうやすやすと手首をつかまれたりしない。だがさすがに、自分の主人の弟であり、この国でもっとも貴い血の流れた男の手を無下に振り払うことはしなかった。
春斗も春斗で、いつも手にしている檜扇はさすがに置いてきたようで、手持ち無沙汰なのか、くるりくるりと、器用にフォークを回して見せる。一般的にはマナー違反なのだろうが、少しも行儀悪く見えないのはさすがである。
「情報収集くらい、わたしひとりで十分です。護衛の方々のためにも、お早めにお帰りになったらいかがですか」
加賀麗子と偲が、大江すずりとその同室の令嬢、合計四人分の外出許可を出した旨は、迅速に楠校長から理事長の冬斗へと報告された。行き先がここ泰西軒と判明すると、手を回して他の客が入らないようにし、衛藤本人は給仕として潜入することに成功した。
そこまでしなくともと渋い顔を見せた冬斗を納得させ、ぴたりと寸法のあった制服を着こなし、磨き上げた革靴を履いて給仕として仕事に出てみれば、貸切のはずのレストランの壁際の奥の席で、春斗が笑顔で手を振っていた。衛藤の四角い銀縁の眼鏡が、ずるりと斜めに下がったのは言うまでもない。
「給仕は厨房へ料理を取りに行ったり、皿を下げたりするだろう。その間に令嬢のうち誰かが、確信めいたことを言うのを聞き逃したりしたら困りものだよ。頼みの綱の兄さんは、別のところへ出かけてしまったのだから、僕の協力をあおいだほうが得策じゃないか」
言いながら春斗は、衛藤のことなど見向きもせず、窓際の令嬢たちを眺める。
花夢女学校の女学生たちの中には、妃候補とその女官の卵が含まれている。四十八名の誰もが、将来的に春斗と深いかかわりを持つことになるかもしれない女性たちだ。
だが、令嬢たちを眺める春斗の視線はどうだろう。庭先で飛び回る小鳥や、愛玩動物の犬や猫をあたたかく見守るようなそれではないか。流行りの小説や芝居で描かれるような、年頃の青年が同じ頃の娘に抱く、燃え盛るような熱情の類は欠片もない。まあ、そういった感情の揺らぎを持たないのは、衛藤も同様ではあるのだが──。
衛藤がつい、そんな思索にふけっていると、真っ白いテーブルクロスの上に、いつの間にか空になったワイングラスが置かれた。
「お代わりをもらえるかな」
「……かしこまりました」
冬斗を前にして、主人から催促されるような不手際はしでかしたことがなかったのに。衛藤はしぶしぶ葡萄酒の瓶を取り上げると、さっさと酔い潰れて裏に潜む私服の軍人たちに回収されれば良いのにとの念を込めて、なみなみと注いでやったのだった。




