魅惑のビフテキ
「着きましたわね」
自動車が止まり、運転手が先に降りてドアを開ける。入口に近い席に腰掛けていた偲から順に、外へと降り立った。
豊かな緑が生い茂る木々に囲まれた石畳を歩けば、門構えに達者な「泰西軒」の看板が掛けられている。偲と麗子に続いて門をくぐってもなお、目にも鮮やかな緑は続き、見上げれば「洋食屋」との響きにすずりが想像していたよりはるかに大きな建物が現れた。
「ここは結婚披露宴や夜会のパーティーなんかもできますの。今日はお昼のレストランにお邪魔するのですけれども」
麗子の解説が終わらぬうちに、立派な玄関の前で待ち構えていた従業員たちの中から、モーニングに身を包んだ初老の男性がこちらへ歩み寄ってきた。
「麗子お嬢様、偲お嬢様、本日はようこそお越しくださいました。お待ちしておりました」
「葛木さん、ごきげんよう。今日はこちらのおふたりがゲストで、わたくしたちはホストですわ。ご協力よろしくお願いしますわね」
麗子はしらうおのような手のひらですずりとさち子を示し、紹介する。葛木から白髪混じりの整えられた頭を恭しく下げられ、すずりとさち子は恐縮して礼を返した。
「急なご予約を追加でいただきまして、貸し切りとはいかなかったのですが、ご容赦いただけますでしょうか」
「もちろんよ」
エスコートを受け、勝手知ったる様子で麗子は屋内へと進んでいく。赤い絨毯が敷かれた廊下を歩き、給仕たちの手によって開かれた重厚な扉の中へと入れば、白いクロスの掛けられた丸テーブルが、花夢女学校の食堂とは比較にならないほど余裕ある配置で並べられている。クラシック音楽が流れ、中央の大きな花瓶には季節の生花が飾られていた。華やかで重厚な空間に圧倒され、すずりは思わず口をぽかんと開けてしまった。
「大江さん。こちらよ」
口を開けたまま見惚れていた背中に声をかけられ、窓際のテーブルへと早足になる。葛木よりはずっと年若の給仕たちに椅子を引いてもらい、すずりとさち子が腰掛けるのを待って麗子と偲も腰を下ろした。
ふたりとも、いつの間にか帽子を外している。すずりは、自分を挟むように左右に並ぶ、磨き上げられた銀のナイフとフォークにやや緊張を覚える。覚悟はしていたものの、とうとう来ましたね、という感じだ。
「苦手な食材はございますか」
献立表を手にした葛木に尋ねられ、すずりとさち子は同時に首を振った。
「苦手なものはありません。西洋料理ははじめてですけれども」
「何でもおいしくいただけますわ」
すずりとさち子の答えに、葛木と麗子は献立表を眺めながら言葉を交わす。
「大江さんも梨小路さんも、牛鍋をお召し上がりになったことはあって?」
麗子の問いに一瞬きょとんとするが、顔を見合わせてうなずいた。
「数えるほどしかありませんが、大好きです」
「いただくとみなぎりますわよね」
ふたりの答えに麗子は微笑み、葛木と視線を交わしあった。
「それでは当初の予定どおり、ビフテキがメインの泰西軒ランチコースをご用意させていただきます」
ビフテキ!新聞か何かでその魅惑的な名を知って以来、憧れていたのだ。すずりはごくりと喉を鳴らすとともに、興奮で曇り始めていた眼鏡を外し、ワンピースの布地を引っ張ってきゅきゅっと磨きあげた。




