くもり眼鏡の告白
「それで、すずりさんはどうしてあの、文字を書き連ねる儀式をなさったの?」
最後のひとりの女学生が風呂場の戸を閉めて出て行ったところで、さち子はすずりにそう尋ねた。
花夢女学校の風呂は、共同である。夕食を終えた後、クラスごと入れ替えで順番に時間が割り当てられる仕組みだ。脱衣所へ入る前に、部屋の名前が書かれた札をひとり一枚ずつ並べて立てかける。そうすることで着物を脱ぐ前に混雑ぶりがわかるというわけだ。
今日は、すずりたちハ組が最後だった。部屋を出た時間が遅めだったこともあり、最後にふたりきりで風呂を独占できる形となった。
いつもは半結びにしている髪を後頭部で束ね、頬を桜色に染めたさち子はさらりとそう尋ねたが、おそらくは機会をうかがっていたのだろう。すずりは湯気でくもった眼鏡を、ちゃぷんと湯の中へつけた。こちらも、普段は一本にまとめている長い三つ編みをぐるぐる巻きにしている。
風呂へ眼鏡を持ち込むのは、すずりの習性であった。もちろん湯気でくもるのだが、これがないと世の中すべて湯気がかかったのよりもはるかにぼやけるのだから仕方ない。
すずりとさち子は、麗子と偲の部屋へと五目いなりと吸い物の昼食に、先日拝借した和歌を添えて届けた。高柳教頭というおまけつきだったけれど。
まだその返却した和歌に対して、何らの反応もない。麗子は体調不良で、偲も午後の授業に戻らなければならなかったから、とてもそんな余裕はなかったのかもしれないし、「見つけてくださってありがとう」くらいの返事であっさり片付くかもしれない。なぜなら麗子も偲も、すずりがその和歌を手がかりに、大江の家に伝わる才を用いて入れ替わりに気づいたことを知らないからだ。
さち子も絵描きの勘なのか、本能なのか、その秘密を嗅ぎつけた。同じ場所にたどりついたことで、すずりとさち子はお互いそれぞれに抱いていた違和感が現実であったことを確信したのだが、それきりふたりの間で、その話題が持ち出されることはなかった。
学校側はどこまで知っているのだろう。だが、花夢女学校の一期生四十八名はすべて、推薦を受けての入学と聞いている。おまけにそこに次期帝の妃候補も含まれているとあれば、素性調査は綿密に行われているはずだ。その調査すらくぐり抜けているのか、学校も黙認しているのか、どちらにしろ機密情報である。
だが、そのような最高機密を知ったとて、はしゃぐようなさち子ではないことをすずりは数日の共同生活でよくわかっていた。そしてすずり自身、代々大江の家に残されてきた公式記録、その素材となるさまざまな文書、そして例の儀式で目にしてきた文や日記の数々から、耳年増ならぬ目年増になっている。たいていのことでは驚かないし、誰かと共有したいという気持ちもなかった。
麗子と偲があえて危ない橋を渡る道を選んだなら、得心がいくまでそうしたら良い。さち子がイノシシを描くために山へ分け入り、武芸の姿勢を把握するために道場通いをしたように。
持ち主に和歌を返した。一件落着、で良かったのだ。
だが、忙しい一日を終えて風呂場にふたりきり、のんびりぼんやり湯に浸かる機会を得てみれば、ふと頭に浮かんだのかもしれない。もしくは、かねてから聞こう聞こうと思っていたところに、ちょうど良い機会が訪れたのかもしれない。
さち子はきっと、わかっているのだ。すずりには別の目的があって、蓋をしたまま放っておいても良かった入れ替わりの秘密を暴くために、あえて晒さずとも良かった“著しの儀”をして見せたことを。
あまり長く浸かっていても、茹だってしまう。そして、すずりは“著しの儀”を見せることにした時から、消極的な覚悟をしていたのだ。さち子に隠し事はできない──。手のひらで湯をすくい、ごくわずかな間だけ眼鏡を外してばしゃりと顔を洗い、ふるふると水滴を払ってすずりは告げた。
「宮中の記録係の家に生まれながら、このわたしにだけ、あえて隠された記録があるのではないかと思うのですわ。それを解くには、わたしにはあの才を用いるしか手立てがない。女学校の寄宿舎に環境が変わっても、同じことができるかどうかを試させてもらったのですわ」




