五目いなりの届けもの
寄宿舎の最上階の角部屋。自分たちの部屋から見るのとは異なる景色にかすかな違和感を覚えながら、すずりはドアをノックした。
「先ほど昼食をお持ちすると申し上げた、大江です」
そう声をかけ、返事を待つ。背後に控えるさち子の手には、いなり寿司の皿と吸い物の椀、そしてうさぎの形に切ったりんごがそれぞれふたつずつ載せられている。いつものほうじ茶の急須は、ノックをしたのとは別の、すずりの手にあった。
そして、いなり寿司の長方形の皿の下に、端の部分がはみ出るようにして例の和歌の料紙が挟み込んである。もし、手渡す際に偲が気づいたとしたらどのような反応を示すのだろう。反応にあわせて、あらかじめさち子と決めておいた応対をしなくては……と軽い緊張を覚えながらも、完全には期待できないすずりがいた。なぜならば。
かちゃりと静かな音を立てて、ドアが開く。顔をのぞかせたのは、稽古着からいつもの矢絣の藍の着物に着替えた偲だった。話しかけようとしたところで、すずりはずいと身体を追いやられた。
「加賀麗子さんのお加減はいかがです」
すずりを押しやり、代わりに応対したのは高柳教頭だった。寮の主幹も兼ねる高柳は、噂を聞きつけたのか、午後の授業を欠席するかもしれない報告を受けたのか、すずりたちが昼食を終え、着替えて牡丹の間へ向かおうと部屋を出ると、逆三角形の眼鏡の位置を調整しながら、ドアの前で待ちかまえていたのだった。偲の注意が、高柳教頭に向けられるであろうことが予想できた。
(そしてさち子さんも、別のことに気を取られているし……)
先ほど、すずりが昼食配達係を申し出たことを絶賛してくれた相棒は、いなり寿司の盆を手にぶうたれている。麗子を軽々と横抱きに抱き上げた偲を描くため、さらなる観察ができる機会と目論んでいたのが、高柳教頭の登場でおじゃんになったと考えているに違いなかった。
(ともあれ、何より気になるのは、麗子さんの体調だわ)
加賀侯爵家の令嬢にして、入学式で女学生代表挨拶を務めた期待の優等生が体調不良を起こし、入学早々に授業を欠席するとあれば、教頭自ら確認に出向いても当然なのかもしれない。
その存在を見かけるたびに返さなくてはと気に掛かっていた、和歌を返すことができただけでも良しとしようとすずりは心に決め、教頭の背後から偲の返答を待った。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。お嬢様は毎月のものが重くていらっしゃるのです。本日は見学のみのため、体操の授業であっても参加すると譲らなかったのですが、午後の授業に備えて安静にしているようおすすめするべきでした」
女学生にしては低めの、落ち着いた声でそう言うと、薙刀の演武で見せた、辺りに静寂をもたらすかのような整った礼をしてみせた。
「そういうことなら仕方ありませんわね。麗子さんは?」
「常用している薬があり、それを飲んで眠っていらっしゃいます」
「お医者様をお呼びする必要はないのですね」
「薬が効けば落ち着かれますから」
偲の落ち着いた態度に、半ば殺気立っていた高柳教頭も鎮まっていく。すずりとさち子も顔を見合わせた。すずりはそれほど重くはないが、下半身に絶えず配慮をし続けなくてはならない数日が毎月巡ってくるのが女子というものであるから、麗子には同情を覚える。
「しかしながら、偲さん。あなたは午後の授業にお出にならなくてはなりませんよ」「……やはり、そうですか」
あきらかに気落ちしたような声で偲が言えば、高柳教頭はしゃんと姿勢を正して逆三角形の眼鏡をくいっと持ち上げる。
「おふたりがどのようにお育ちになったかはさておき、花夢女学校では女中を連れての入学は許可しておりません。麗子さんは麗子さんでご自身の身の回りのことすべておやりになるべきですし、偲さんは偲さんで、麗子さんのお付きではなくひとりの女学生として入学されている自覚を持たなくてはなりませんよ」
「傍にいて手を握って差し上げていると、痛みもやわらぐようで表情も穏やかになるのですけれども」
その言葉にさち子が反応して身を乗り出すが、すずりはどうどうと抑える。その間に、高柳教頭が肩をすくめた。
「そのような特例は許されません。偲さんは早々に昼食をお召し上がりになって、午後の授業のお支度をなさいますように。麗子さんは体調不良で欠席とわたくしのほうで報告しておきます」
「かしこまりました」
教頭がようやく場所を譲ってくれたところへ、さち子が進み出て、ひとつずつ盆を手渡す。中まで入って勉強机のあたりまで運んでもよかったのだが、偲にはその意志はないようで、ドア付近で二度そのやりとりをした後、すずりがほうじ茶の急須を渡して終了となった。ドアの隙間からは、上等な香の匂いがわずかにただよっていた。
結局、五目いなり寿司の皿の下に挟み込んだ和歌の料紙について、偲は何の反応も示さなかった。
「お気遣いに感謝します。おふたりとはクラスが違いましたね。寮のお部屋は?」
偲に問われて、すずりとさち子はうなずく。
「わたくしたちはハ組ですわ。寄宿舎のお部屋は一階で、鈴蘭のお部屋になります」「お教室はハ組で寄宿舎は鈴蘭のお部屋ですね。いずれお礼にうかがいます」
「お気遣いなく。それよりもまた、薙刀の演武を拝見したいものですわ」
さち子は笑顔でそう言うが、本心では薙刀よりも偲と麗子ふたりの親密なやり取りを、もっと観察したいと思っていることがダダ漏れていた。
「いずれまた機会がございましたら」
偲は穏やかに微笑むと、一礼してドアを静かに閉めた。
「麗子さん、早く良くなられるとよろしいのだけれど」
「お吸い物のお椀が冷めないうちにお召し上がりになれると良いですね」
すずりとさち子がそんなふうに言いながら、見晴らしの良い三階の窓から外の景色をぼんやり眺めていると。えへんえへん!高柳教頭の咳払いで、現実に引き戻された。
「あなたたちも、午後の授業です。たとえご学友に昼食を届けたとはいえ、遅刻の理由にはなりませんよ!」
「は、はいっ」
「廊下はお静かに。決して走らない!」
「はいっ」
一気に現実に引き戻され、すずりとさち子は早足で寄宿舎の廊下を歩いていく。角を曲がり、階段を降りかけたところで、教頭のこんなつぶやきが聞こえてきた。
「お医者様を呼ぶ必要がなくてよかったこと。入学式を終えたばかりでさっそく理事長のお手を煩わせるわけにはいきませんから」
理事長。その単語に、すずりは階段を一段抜かしてあやうく姿勢を崩しかけたが、察したさち子が咄嗟に伸ばした腕に支えられて、なんとか転ばずに済んだのだった。




