煙草盆の呼び出し
「おじじさま、お呼びですか」
障子の外からかけた声に返事をもらうと、すずりは作法どおりに部屋へ入った。入ってすぐに、昔からのなじみの、使い込んだ煙草盆が目に入る。すずりはくんと鼻を動かし、墨と混じった煙草の匂いを嗅ぎ取る。
それは祖父・文鎮の部屋独特の香りだった。幼い頃からすずりは祖父の部屋へ入るのが好きで、煙と墨の混じった独特の香りは、その先に語られるであろう、わくわくするような未知の物語への先触れのようなものだった。条件反射だろうか、唐突な呼び出しに覚えた不穏を忘れ、きゅんと胸がときめいた。
書きものを終え、筆を置いた文鎮が振り返る。すずりはざっと部屋の中を見渡した。相変わらず殺風景である。文鎮は愛煙家であるにもかかわらず、書物にその匂いがつくのを嫌うため、部屋には書物を一冊も置かず、ものが少ないのである。
ならば煙草など吸わなければ良いと思うのだが、一服して気持ちを落ち着け、そのまま筆をとって書き始めるのが文鎮にとってもっとも筆が進むやり方らしい。
すずりも、いつしか同じ手順をたどるようになった例の儀式のことがある。手順の理由を問われても、うまく説明することができない。
だが、試しに順番を入れ替えてみたりすると、勝手が違って儀式そのものがうまくいかないのだ。だから、矛盾しているような祖父のやり方に口を挟むつもりもなかった。
「もうすぐ昼餉です、おじじさま」
「ああ、もう、そんな刻限か」
そう言って文鎮は、つるりとした頭とはうらはらに、豊かにたくわえたあごの白い髭をゆっくりと撫でる。その仕草を見るたびにすずりはテンの尻尾を思い起こすが、さすがに祖父の髭を、いつか筆にすることを夢見て撫でるわけにもいかない。むずむずする右手のひらを、正座した膝の上できゅっと握りしめた。
「呼び出したのは他でもない。すずり、おまえ来春から女学校へ行きなさい」
「女学校?」
家長である祖父の言葉に対し、本来であれば聞き返すなどあってはならないのだが。すずりはつい、声をひっくり返して鸚鵡返しにしてしまった。なぜなら、かつてすずりが小学校を終えて次の女学校へ進むことを拒否した際に、誰よりも賛成してくれたのは祖父の文鎮だからである。
「どうして今さら、女学校なんて」
「今、神田に新しいのを建てている最中だという。そこの一期生への推薦状が来た」
「神田に」
地名はわかるが、どのような町並みなのだろう。すずりは麹町の自宅の周辺、徒歩圏内の範囲しか移動したことがなかった。文鎮から膝の前に置かれた文を広げると、たしかに流麗な文字でその旨がしたためられている。
「花夢女学校……?」
「華族女学校ともまた違う、独自の目的があって設立された学校だそうな」
「独自の目的?」
すずりは再び推薦状に目を走らせるが、それらしき文面はつづられていなかった。うおほんと文鎮が咳払いをし、すずりはハッとなる。手早く推薦状を畳んで膝の前へと置き、居住まいを正した祖父に倣って、ぴしりと背筋を伸ばした。
「その方が誰とは知らされないが、一期生の中には、春の宮のお妃さまとなられる令嬢がおられる。おまえたち推薦を受けた女学生は、春宮妃候補のご令嬢と二年の歳月をともにするわけだ。その間にお妃さまのお気に召した者は、入内の際に付き従って宮中へと入り、女官としてお仕えすることになる。花夢女学校は、いわばお妃さまと女官の養成学校になるわけじゃな」
文鎮の言葉に、すずりは目をぱちくりとさせる。だが、いつまで待ってみても、祖父のしわがれた声が「冗談だ」のひとことを発することはなかったのだ。




