励ましの檸檬どろっぷ
(ああ、今すぐ大江の家に帰りたい……)
非日常にややざわつく講堂で、白い木綿の稽古着に紺色の袴をつけたすずりは、陰鬱な顔でふたり掛けの椅子に腰掛けていた。
この講堂で、入学式があったのはもう数日前のこと。花夢女学校も、当たり前だが学校である。授業が開始され、すずりとさち子、そして他の令嬢たちも日々、寄宿舎から教室のある校舎へ通い、学んでいた。
そして今日は、はじめての体操の授業である。それもイ・ロ・ハの三クラスで合同授業とあって、女学生たちは講堂へと集合していた。
入学式と異なるのは、皆で揃いの稽古着を身につけていること。女学生たちの頭に飾られている、入学式の日に雛菊に結びつけて贈られたリボンだけが、華やかに色を添えていた。
「すずりさん、どこかお身体の調子が良くないのではなくて?」
さち子に覗き込まれ、すずりは弱々しく首を振る。おそろいの稽古着を身につけ、隣に腰掛けたさち子は今日も元気溌剌であった。
(イノシシをスケッチするのに山にこもったくらいだもの、さち子さんは動きが敏捷なのだわ)
かく言うすずりは、体操が大の苦手である。
いかにも身体を動かすのが好きそうな、口調も圧も強い体操教師。隊を乱さぬよう、右へ左へ敏捷に移動しなければならない緊張感。同じように動けと手本を示されれば、「そんなことをして意味があるのか」とつい考えてしまう。そして、夜更かしでだるい頭に機敏な動きの指示を出すのはむつかしい。結局のところ、体操の授業で行われるすべてがすずりに合わないのである。
(覚悟はしたつもりだったけれど、できていなかったのだわ)
女学校への推薦状が祖父宛に寄越された時点で、抗うことのできない命令ではあったのかもしれないが、それでもすずりにはひと冬の猶予が与えられた。その間に、体操の授業のことが頭を過らなくもなかったのだけれども。
どうせ花嫁修行ばかりさせられるのだからと高等学校へは進まず、集団行動から距離をおいていたすずりの中で、小学校時代に憂鬱だった体操の授業の記憶が風化していたのかもしれない。
(今からでも、月のものが重いとでも言って欠席させてもらおうかしら)
すずりが悪あがきの手段を思い描き、目の前の嫌なことからとりあえず逃亡しようと企み始めた時だった。
「はい、すずりさん。あーん」
「?」
至近距離まで迫ってきたさち子の指に促され、すずりはつい口を開く。ぽんと放り込まれたそれが舌に触れると、たいそう爽やかな香りと味がしてすずりの瞳がぱちりと開いた。
「目が覚めますでしょ?」
蓋を閉めて丸い缶を懐に忍ばせるさち子の吐息も同じ香りがして、すずりはそれが檸檬味のどろっぷであることに気づく。甘酸っぱいそれは、まるで気付け薬のようにすずりの意識を現実に引き戻した。
そこで女学生たちのざわめきが途切れ、講堂内が静かになる。すずりは、舌の上の檸檬どろっぷの存在を悟られないようきりりと唇を結び、気を抜くとすぐに丸くなる猫背をできるだけまっすぐに伸ばした。
正面を向けば、女学生と同じ稽古着と袴を身につけた小柄な女性が、壇上へ続く階段を軽やかに上がっていく。入学式の時には中央にあった演台は撤去されており、がらんとした壇上の中央で立ち止まると、その女性は両足をやや開いて立ち、こちらへ向かって礼をした。
「体操教師の瓜生です」
名乗りを上げた教師に、女学生たちは揃って礼を返す。すずりは、檸檬どろっぷで持ち直したはずの気持ちが、みるみるうちに萎えていくのがわかった。
きゅっと引き締まった小柄な身体、意志の強そうな瞳と表情、姿勢良く堂々とした立ち姿。「大江さん、もっとピシッとなさい!」と叱り飛ばされる様が容易に想像できた。
「本校の体操の授業では、なぎなた体操を取り入れることとなりました。季節や行事にあわせて他のものも取り入れていきますが、基本的にはこのなぎなた体操を繰り返し、心身ともに健やかに鍛えて参りたいと思います」
聞き慣れぬ単語に、お互いに小さくなった檸檬どろっぷを舌の上にひそませながら、すずりとさち子は顔を見合わせる。
「我が国における薙刀の歴史は古く、武家の女性のたしなみでもありました。しかしながら御一新に伴い、皆様のような良家のご令嬢であっても、薙刀を手にしたことがない、その演武を目にしたことがないという方も増えておられるようです。なげかわしや」
まさにすずりも、そのなげかわしい女学生のひとりであった。とはいえ、武術について記した書物はいくつかあるもので、大江の家が入手可能だったものはすべて知識としてすずりの頭の中に放り込まれてはいるのだが。
「本日、三クラスの皆様にお時間をいただき、お集まりいただいたのは他でもありません。なぎなた体操に取り組むにあたり、実際の薙刀の演武をお目にかけたいと思ったからです。幸運なことに、皆様の中に薙刀の鍛錬を積んでこられた方がいらっしゃいました。これから、その方とわたしが演武を行います。本日の授業ではとくとそれをご覧いただきたいと思います」
苦手意識しか湧いてこない体操教師・瓜生の語りに、またしてもまぶたの帳が降りかけていたすずりだったが、話を聞く内にぱあっと希望の光が差したような心持ちで目を見開いた。
(演武の見学。つまり、本日は体操の実践はなしということね……!!)
神様仏様に感謝の祈りを捧げたい気持ちになって、すずりが檸檬どろっぷの小さな欠片を飲み下したところで、女学生たちの視線が一斉にそちらに注がれた。先ほど体操教師の瓜生が上ったのとは逆の階段から、そろいの稽古着に身を包んだ偲が、薙刀を手に壇上へと向かっていた。




