ほうじ茶の後で
「ありがとうございます。そのおむすび、さっそくですけれどもいただきたいわ」
すずりがやや切羽詰まって迫ると、さち子が軽く目を見開く。そしてふたりで、一段しか段差はないものの畳敷きの小上がりへ腰を下ろし、床へ向かって足を投げ出した。
「食堂へ行けば、もう夕食がいただけますけれど。よろしいの?」
「さち子さんがお腹が空いて我慢できないというのであれば、すぐに参ります。でも、いつもあれの後にはとてもお腹がすくんです。あまりに勢いが良すぎると、他のご令嬢がたをびっくりさせてしまうかもしれませんでしょう。先におむすびをお腹に入れて、少し落ち着いてから食堂におうかがいしたほうがよろしいのではないかしら」
すずりが言えば、さち子は要領を得たというようにうなずいた。そして、先ほどまですずりの眼鏡置き場だった台を引き寄せると、盆を置く。
「すずりさんがお休みの間、わたくしはスケッチしつつ豆菓子をつまんでおりましたから、お気遣いは不要よ。ゆっくり召し上がって」
「本当にありがとう。いただきます」
「召し上がれ」
手を合わせるすずりをよそに、さち子は急須を傾けて湯呑みにほうじ茶を注いでくれる。とぽぽという音を聞きながら、ひとつおむすびを手に取り、あむと噛みつく。
いつもの雑穀の混じった三分づきのごはんの外側が、ほどよい塩味で覆われている。塩むすびかと思いきや、もうひと口奥へ進めば昆布のつくだ煮がお目見えして、さらなる食欲をそそった。とても“ゆっくり召し上がる”わけにはいかない。
「詰まらせてはいけませんわ。落ち着いて」
ひとつめのおむすびをぺろりと平らげ、ふたつめに伸ばした手に、さち子から湯呑みを手渡された。おとなしくおむすびを皿に戻し、あたたかいほうじ茶をすする。
ようやく少し生き返った心地がする。添えられていた半月型のたくあんをかじって呼吸を落ち着け、ふたつ目に手を伸ばすと、今度はそのまま、おむすびに進むことを許された。
「お疲れ様でした。たいそう体力を使う、儀式のようですわね?」
さち子にしては遠慮がちな問いに、すずりはおむすびを咀嚼しながら視線で続きを促す。ちなみにふたつ目の中身は梅干しだった。
「とはいえ、とても興味深い光景でしたわ。思わずスケッチしたい衝動に駆られましたけれど、お手伝いするとお約束しましたもの。グッとこらえましたわ」
「ありがとうございました。つつがなく、進んだようですわね」
すずりはおむすびの欠片を頬袋の中に残したまま、頭を下げる。するとさち子は立ち上がり、自分の勉強机の上に置いてあったスケッチブックを手に、戻ってきた。
ふたつめのおむすびとたくあんを食べ終わり、すっかりからっぽになった皿に物足りなさを覚えながら、今度は自分で急須を傾け、お代わりのほうじ茶を注いでいると。隣に座ったさち子が、自分のスケッチブックをぱらり、ぱらりとめくっていく。
「お道具も一式揃っていますし、わたしがしたような手伝いも含めて、手順が決まっているのね。すずりさんはこれまでに、先ほどのあの流れを、何度も繰り返してこられたのでしょう」
スケッチブックに目を落としたまま投げかけられた問いなのか、ひとり語りなのかに、すずりはうなずく。花夢女学校の入学式その日に、例の儀式を行う書道用具一式を紐解くことになるとは思ってもいなかったが。
それでも、すずりの唯一の武器は例の儀式である。行うにはどうしても人の手助けが必要であって、他に頼れる人もいないからさち子に頼んでみれば、はじめてにもかかわらず絶妙な合いの手でやってのけてくれた。さち子の言葉を借りればまさに相棒になってくれたのだから、打ち明けないわけにはいかない。
「代々、大江の家は宮中の記録係を務めてきました。その大江家に、百年にひとりくらいの確率で、先ほどわたしがお見せしたような儀式を行う者が現れると聞いています。ひたすら文字を書き殴ったあの儀式を、わたしの家では“著しの儀”と呼んでいました。対象となる人物の手蹟が鍵となり、頭の中へ雑多に放り込まれた書物の知識の中から、関連する情報が引っ張りだされます。溢れ出すままに書き付けていくうちに、わたしが書く文字がその人物の手蹟に近づいていって、最終的に完全に筆致が一致するところまでたどりつくと、その時にいちばん必要とされている言葉を書き著すことができる、というものです」
「……つまり先ほど行った“著しの儀”で、すずりさんは加賀麗子さんの謎を解き明かした。そもそも、すずりさんは麗子さんの和歌を見て、解き明かすべき謎があることを見出していたということにもなりますわね?」
さち子の言葉に、すずりはきょとんとなる。きっかけは、食堂を出てクラス分けの貼り紙の隙間から見つけ出したそれの、意図が気になったくらいだ。
大江の家から花夢女学校へ来て、環境が大きく変わった。実家では、小遣い稼ぎくらいの気軽な気持ちで行っていた“著しの儀”だが、女学校の板張りの床で同じことができるのか、試してみたい気持ちがあった。
なぜなら、“うわさの理事長”に、すずりは大きく動揺したからだ。すずりには大江の家にいた時から、誰にも言えず、気づかぬふりをしながらも、ある時から覚えていた違和感のようなものがあった。
そこに飛び込んできた、理事長の出自。衝撃を受けると同時に、これだという確信もあった。謎解きには、唯一の武器である“著しの儀”で挑むしかないのだから、環境が異なれども成立するのか確かめてみなければならない。さて、洋室での挑戦は成功したのだろうか。
「わたしが書き上げた最後の文言を、さち子さんはもうご覧になったのですか?わたしは、“著しの儀”の最中は記憶がおぼろげで、終えると力尽きて寝落ちしてしまうものですから」
すずりが問えば、さち子は首を振る。
「いいえ。すずりさんがお目覚めになってから一緒に拝見しようと思っていましたの。巻紙の墨が乾くまで、スケッチでもして待とうと思っていたら、ついのめり込んでしまって」
ある頁へたどり着き、さち子がスケッチブックをめくる手を止める。
「梨小路の家に絵を描く者がいたのか、先祖を遡って調べたことはないので、すずりさんのお家のような代々続く能力ではないのですけれども。非常に萌える対象を見つけて、丹念に観察し、綿密にスケッチするということは、たまに何かを引き当てたりすることがあるものですわ」
そう言って開いた頁をそのまま、すずりのほうへと差し出す。湯呑みを置き、受け取ったすずりは描かれたものを見て、はっと息を呑んだ。
さち子はもう一度立ち上がり、すずりのベッドの上の巻き紙を取り上げ、広げながら戻ってくる。そして、文字の書かれたいちばん左端を、やや強張った表情で指差した。
「わたしたちはふたりでひとり。これまでも、これから先もずうっと……?」
「麗子さんが矢絣の銘仙、偲さんが友禅をお召しになっている……」
すずりが文字を書いた巻き紙と、さち子が描いたスケッチブック、それぞれがたどり着いた結論に、ふたりはなんとも言えない表情で見つめ合った。




