洋室での挑戦
共同の水場で歯磨きを終えると、すずりとさち子は部屋へと戻った。
(まさか、こんなに早く使うことになるとは思わなかったけれど)
畳敷きの小上がりの壁際に、ふたりの行李が重ねて置いてあった。ひとつを引っ張り出し、すずりは蓋を開ける。しぐれ堂のふたりを客間に招いた際に用いた、書道用具一式が収められていた。
花夢女学校では、授業の板書は基本的に鉛筆とノートで行うという。名前の由来にもなった硯は別として、すずりは女学校への入学を決意してからというもの、他の道具一式を持参するか否か、苦悩とまではいかないが、しばらくの間決めかねていた。
(令嬢たちがこの能力を知るはずもなく、もし知っていたとしても、いったい何に困って相談してくるというのかしら)
おそらく、女学校にいる間に使うことはないだろう。そう思ったが、結局のところ、すずりは荷物の中に道具一式を入れ込んだ。硯以外の道具にはさほどこだわりがないが、大江の家に置いてあっても誰も使わないからである。
件の硯は、すずりが生まれたばかりの頃、外出先から戻った祖父の文鎮が「大江の娘が持つのにちょうどよいのを見つけた。この子はすずりじゃ」とかなんとか言って、まだ筆を持つこともできない赤子のすずりに与えたらしい。那智黒石の、つるりとまあるい卵形で、すずりの手のひらにのる大きさのものだ。
そうして、この十六年の間、すずり以外が墨を磨ったこともなければ、すずりもこの硯以外を使ったことがない。ためしに別の硯を使って墨を磨ってみたことがあるが、文鎮に与えられたその硯がいかに良品であるか思い知らされるだけだった。
そんなことを考えながら硯箱を取り出し、自分の右手側へと置いた。筆を筆置に、水差しを手の届きやすいところへ置いた後は、しばらくぶりに対面すればさらにまぶしい、目の覚めるような朱色の毛氈を広げた。
ちなみにこの鮮やかさはすずりの趣味ではないが、文字を書き殴るうちに畳や床にはみ出てしまうことが続いたため、ある時、目立つ色のものに変えたのだと青墨が言っていた。
そんなふうにさり気なく気の利く青墨は、男子禁制の女学校にはおらず、手を貸してはくれない。できたばかりの新しい相棒と、やってみるしかないのだ。
「さち子さん、お願いします」
すずりが視線を向ければ、あきらかに興味津々の表情で一挙手一投足を眺めながらも、ひとことも発せず待っていてくれたさち子が目を輝かせた。すずりが右端を持ち、さち子が左端を持ち、三畳の畳の間に広げる。
「ずいぶんと長いものね」
さち子が言うが、すずりは渋い顔だ。大江の家の客間は、十畳と八畳の二間続きだった。依頼主たちとも十分な距離があり、すずりが縦横無尽に書き殴っても、誰にも激突することのない広さだ。
小上がりの畳の間では、それは望むべくもない。だが、すずりは自らの意志で環境を変えた。新しいやり方を模索しなければならない。
すずりの困惑を感じ取ったのだろうか。さち子が、はいと挙手をしてみせた。
「どうせ毛氈を敷くのだから、こちらを使ってはどうかしら」
そう言うとさち子は一度広げた毛氈をくるくると巻き、立ち上がると、ふたりのベッドとベッドの間、窓際の勉強机の間に向けて、ころんと毛氈を転がした。
板張りの床の真ん中に、朱色の毛氈が道を作る。少なくとも畳の間よりはずっと長く、広げることができた。
「膝が痛いかもしれないけれど、そこは我慢のしどころですわね?」
「承知の上ですわ」
すずりはうなずき、さち子が広げてくれた毛氈の上に、巻紙を転がす。そして、紙の右端に重しを載せた。
さち子もおそらくわかって言っているはずだ。夢中になって何かに取り組んでいると、堅い床の上で同じ姿勢を取り続けて痛む足のことなど、どこかへ飛んでいってしまうのだ。
やり終えて集中が途切れた時に、痛む節々に後悔することが無きにしも非ずだけれど。
「これから墨を磨ります。磨り始めたら、話しかけずにお待ちいただけますか」
「お安いご用ですわ」
さち子はこれからの展開への期待を隠すことなく、スケッチブックと鉛筆を手に入り口のドアのところへ腰を下ろし、もたれかかった。
なるほど、それなら退屈させてしまう心配なさそうだ。むしろ、そちらに集中しすぎて、助けを出すのを怠らないでほしいのだけれど──。そんな思いを込めて視線を向ければ、さち子は鉛筆を持ったままうなずいて見せた。
(きっと大丈夫だわ)
すずりの行動傾向を把握し、痒いところに手が届くように先回りして何もかも整えてくれた青墨とは、また違う形になるだろうけれども。さち子ならきっと、一緒にたどり着いてくれる。
まだ出会ったばかりだというのに、なぜか疑いの欠片もなくそう確信したすずりは、畳の間に戻り、水差しから硯へと水を垂らす。そしてふうとひとつ息を吐くと、手にした墨を前後に動かし始めた。




