不確かな記憶と香辛料の匂い
(外遊帰りの、春の宮の兄君……?)
すずりの心臓が、どくんと大きな音を立てる。
(兄、ということは、そもそも皇子のおひとりのはず。その御方について、わたしが知らないだなんてことは……)
大江の家は代々、宮中の記録係である。そしてすずりの頭には、大江の家の者が書き記してきた記録、そして公式記録を残すために参照した残存する書物や書簡、日記の類などもすべて入っている。
(今の帝の皇子は、次に帝となられる春の宮さま、弟の夏の宮さま、末の秋の宮さま、この御三方のはず。春の御方より先にお生まれになった兄君がいらっしゃった、なんて記録は)
万にひとつ、何かしらの事情があってなかったことにするべく、公式の記録に残さないことにしたとして。まだ新しい記録であるから、関連文書を抹消することはできなくもない。ならばなぜ、さち子が知っているのだろう。
(辻褄があわなすぎるわ)
はじめにどくんとひとつ大きな音を立てた心臓は、今ではドクドクと速い速度で不穏な鼓動を立て続けている。すずりの背中を冷や汗が伝い、胃の中から何かが込み上げ、吐き気すら覚えた。
「すずりさん!?どうなさったの、顔が真っ青よ」
気づいたさち子があわてて、石造りのベンチへと連れて行ってくれる。すずりはふらつく足を引きずりながら、少しでも動揺を鎮めようと自分に言い聞かせていたの、だが。
「……香ばしい、匂い?」
「あら、本当。これは、ライスカレーではなくって?」
着物に焚き染めるには、食欲をそそりすぎる香りが、食堂のほうからただよっていた。
ライスカレー。すずりはまだ実物を見たことも口にしたこともなかったが、知識として知ってはいる。秋にいただく秋刀魚や松茸を七輪で焼いたのとはまた違う、香ばしい香りがするとか。
そういえば、昨日の昼食は関西風のおうどんだった。花夢女学校で提供される昼食は、典型的な和食である朝と夕とは異なる趣になりそうだった。
「それよりすずりさん、お加減はいかが?」
「……だいぶ、落ち着きました。食堂でお水をいただけば、もっと良くなると思います」
「そう。それならここで休んでいるより、先を急いだほうが良いかしら。あまり混んでいないと良いのだけれど」
さち子は心配そうに覗き込みながら、先に立ち上がる。差し出された手に手を重ね、すずりは強めに地面を踏みしめ、立ち上がった。
大江の家の娘の頭に刻まれていなければおかしいはずの記憶のことを、すずりはいったん忘れることにした。追究したい気持ちはあるが、畏いあたりの話である。それに、ライスカレーの香りにかき消されてしまったというのもある。憧れのライスカレーを、腹の奥から込み上げてくる不穏なものとともに味わうわけにはいかない。
頭を使うには、頭に回す栄養が十分でなくてはならない。大江の家の先祖の中には、食を忘れて書物に没頭し、書庫で餓死しかけた者も何人かいるのだ。だから大江の家の者は、三度の食事と二度のおやつを何より優先するよう言い伝えられている。
「あら、賑やかだこと」
朗らかなさち子の声に、やや非難がにじんだのはすずりの体調を慮ってのことだろう。食堂の前に立てられた即席の看板の前には、女学生の人だかりができていた。
そして看板から少し離れたところに、もうひとつの輪ができている。入学式で令嬢たちの視線を釘付けにした、加賀麗子の周りを、女学生たちが取り囲んでいた。




