イノシシのお導き
「とてもお上手ですね。今にも動き出しそうだわ」
食い入るように眺めた後、ほうとため息をついて、すずりはそんなありきたりな感想を漏らしてしまった。だが、心からの感想を述べたことが伝わったのだろう。さち子は、山吹色の友禅に描かれた小花模様のような笑顔を浮かべた。
「とってもかわいらしい方がたいそう重そうな風呂敷包みを背負ってこちらへ歩いていらっしゃる。同室になるならあんな方が良いわと思わず鉛筆を手に取ってしまったんですの。描き始めたら止まらなくなってしまって、お迎えもご挨拶もできずにたいへん失礼しました」
言いながらさち子は、すずりの隣に座る。覗き込むたぬき顔は愛くるしいが、そこはかとなく圧が強い。すずりは、自分自身が描かれたスケッチブックとさち子の笑顔を見比べた後、傍に置いておいたきんつばを目にし、我に返った。
「大江すずりと申します。これからよろしくお願いいたします」
ぺこりと頭を下げれば、さち子は少し垂れ目がちなひとえの瞳を大きく見開いた。
「墨を磨る硯のすずりさんね。言われてみれば、そこはかとなく墨の匂いがただよっているような気がするわ」
至近距離まで顔を近づけ、くんくんと匂いを嗅がれて、すずりは居心地の悪い思いをする。幼い頃から書物が友達で、たいていの行動を青墨とともにしていたすずりは、年の近い令嬢とこんなに近い距離で接したことはなかったからだ。ひとしきり嗅ぎ終わった後、すうっとさち子が身体を起こす。
「大江というと、代々宮中の記録係を務めたお家柄。新しいお妃さまの女官に大江のご令嬢が加われば、清少納言や紫式部のいた時代のサロンのようになりますわね」
さち子の物言いに、すずりは場の空気が変わったことを察する。大江の家のことを知っているのだ。
こちらはこちらで、すずりも脳内の記憶をたどる。スケッチに圧倒されて驚きそびれたが、さち子が口にした梨小路は、れっきとした宮家のひとつである。
そしてすずりは、祖父に告げられた花夢女学校への推薦条件を思い起こす。お妃さま候補とともに二年間の学生生活を過ごし、宮中へ上がる女官候補を育てる。女学生たちには、誰が妃候補であるかは知らされない。
だが、妃候補というのは得てして複数いるものなのだ。同じ寄宿舎で暮らす女学生の中に、その数人が同時に存在することになるのだろうか。
そんな、すずりの一連の思考が読み取られたのかもしれない。さち子は、すずりの手からスケッチブックを取り上げ、頁をめくる。
「安心なさって。梨小路はたしかに宮家ですが、わたしは妃候補ではありません。血筋と家柄から候補のひとりに上げられることもなきにしもあらずですが、わたしにそのつもりはありません。本妻ではない、それも複数いる外腹の十四番目の姫ですしね」
スケッチブックをめくっていた白く可憐な手がぴたりと止まり、その頁をすずりに突きつけた。示された絵に、すずりは息を呑む。
「先日、どうしてもイノシシが描きたくなって、山にこもってひたすらスケッチしておりましたの。ようやく納得いくものが仕上がって山を下りてみたら──」
さち子はクスッとおかしそうに肩をすくめた。
「それまで住んでいた家が他人の手に渡っていましたの。住むところもないので、寄宿舎のあるこの女学校へ誘われるがまま、来ただけですわ」
今にもこちらへ向かって突進してきそうなイノシシの正面を描き切った躍動感のある絵とさち子を見比べ、すずりは返すべき言葉が見つからなかった。




