スケッチブックと同室のお嬢様
ドアをノックした手を自分のほうへ引き寄せて、すずりは耳をすませて返答を待つ。だが、しばらく待っても返答はない。窓の外を改めて眺めるが、まだ日は高い。
(お昼寝ということもなくはないでしょうけど)
入学式は明後日で、学校には式に間に合うように入れば良いと聞いている。すずりは中一日空けて今日にしたのだが、明日の到着でも間に合うわけで、同室の令嬢はまだ到着していない可能性もある……などという可能性も考え、ドアノブに手をかけた時だった。
「どうぞお入りになって!今、手が離せないの」
ドアの向こうからそんな声が届き、すずりはびくりとなる。
(手が、離せない?)
女学校の寄宿舎でどんな事態が起きているのだろうか。すずりは背中に背負った風呂敷包みの結び目を握りしめると、ふうとひと呼吸置いてドアノブをひねった。
キイと音を立てて開いたドアの向こうにのぞいた部屋の景色は、すずりが生まれてはじめて目にする洋室だった。板張りの床の上にはふたつのベッドが並び、白いガーゼのカーテンのかかった窓からは寮にたどり着くまでに眺めてきた、木々の葉の生い茂った緑が見えた。
(先ほどの声の主の令嬢はどこに?)
すずりが視線を彷徨わせれば、山吹色の友禅に浅葱色の袴を身にまとった小柄な身体が壁に寄りかかるようにして、足を投げ出し座っていた。その手元には大きな西洋風の帳面──スケッチブックがあり、令嬢は一心不乱に右手を動かしている。シャッシャとすずりには聞き慣れない音が響いた。
「失礼します」
すずりはそう声をかけて、ドアを閉める。部屋の反対側を振り返れば、床から一段上がったところに衣装箪笥がふたつ並べられ、三畳ばかりの畳が敷き詰められていた。すずりはそこへ風呂敷包みを下ろし、すっかり軽くなった身体で正座をする。
壁際の令嬢は、相変わらずシャッシャと音を立ててスケッチブックを食い入るように見つめている。半結びの髪型にして下ろした髪が、手の動きに合わせて揺れていた。
「少しお待ちになってね。なにぶん、手が離せないものだから」
視線をこちらに向けることもなく、令嬢は言う。
「おかまいなく」
すずりは心の底からそう言う。なぜならすずり自身も、ひとたび書物を読み始めれば同じく“手が離せない”状態になるからだ。
(これは気が合うかもしれないわ)
すずりはホッとため息をつく。いかにも良家のお姫様といったふうにお高くとまっているのも苦手だが、かといって人の噂話が何よりも好きなきゃっきゃとはしゃぐ年頃の娘たちとの付き合いも疲れるからだ。
下ろした荷物を解き、すずりは中身を確認する。女学校入学にあたり持ち込める荷物は制限されており、家を出る直前まで悩みに悩んで背負えるだけの書物を詰め込んできたのだった。他には身の回りのものに加え、同室の令嬢と一緒に食べるようにと母から持たされた、しぐれ堂のきんつばの包みもあった。
ぎゅうぎゅうと風呂敷包みに押し込んできたので、つぶれて中の餡が飛び出したりしていないか、包みの外から確認する。壁際の令嬢のほうをちらりと見るが、変わらず手が離せなさそうなので、書物の整理整頓を始めることにした。
窓際の勉強机はふたつ。おそらくひとつはすずりのもので、その上にも何冊か置けないこともないのだが。
(とても足りない)
こちらの衣装箪笥もふたつあり、その上に並べることもできそうだ。さて、どの書物をどのように並べるべきか。考えるにはどうしても書物の中身を確認しておく必要があってと言い訳しつつ、ぱらりとめくればあっという間に書物の世界へと誘われ、多少のことが起きても戻ってこられなくなってしまうのがすずりであって──。だが、今日に限って間一髪それは免れた。
「できましたわ!」
壁際の令嬢が突如として、声を上げたからである。書物から顔を上げるすずり。すると壁際の令嬢は立ち上がり、そのスケッチブックを手に、ぱたたとこちらへ駆け寄ってきた。
「はじめまして、梨小路さち子と申します。ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。これからどうぞよろしくお願い申し上げますね」
そう言って差し出したスケッチブックに描かれたものに、すずりは顔半分を覆う大きな眼鏡の下の瞳を見開く。そこには、大きな風呂敷包みを背負って寄宿舎「花夢女子寮」を見上げる、すずりの姿が見事に描かれていたからだ。




