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第八章 諦めていた夢とか



開店前の寿司屋はほんのりとうす暗く、レーンは動いていない。二十歳にして、少し考えてみれば分かるような当たり前の事実を目の当たりにしている。


下北沢駅から五分ほど歩くとある寿司屋のバックヤード。開店三十分前、客が一人もいないテーブル席は軽く奇妙だ。


「矢島幹人……これ読み方みきとで合ってる?」


店長の眼鏡が光る。視線の先には昨日勢いで書いた履歴書がある。


「はい、間違いないです」

「へえ、山梨県出身なんだ。あれだよね、梨とか有名だよね」

「それ山梨の梨に引っ張られすぎてますね。有名で言うと、ブドウとか桃とかそっちですね」

「そうかそうか。桃美味しいよね。あるとつい食べちゃうんだよなあ僕。奥さんに怒られたりしてね。あ、ちなみに飲食の経験はある?」

「ないんですけど、やる気はあります」

「そうかそうか。やる気があるのはいいことだね。お寿司はよく食べる?」

「はい。大好きです」

「うんうん。うちはまかないもあるからね。いいねえ」店長は頷きながらたくわえた髭を触る。


バイトを始めよう。思い立ってからすぐバイトルを入れた。さすが都内だけあって、職種さえ選ばなければ何百件の選択肢がある。中でも距離が近くてまかないがあるのがここだった。


仕送りも親から送られてくるけど、ちなの〈死ぬやり〉を叶えるために親の金を使うのってなんだか気持ちが悪い。ちながチョコミントのアイスを食べたいって言ったら、自分で稼いだお金で買ってあげたい。


店長が顔を上げる。


「大学も近いし、長くやってくれそうだし。うん、採用。これからよろしくね」


こぶしを上げそうになったのを抑える。


「ありがとうございます!」

「それにね、たしかうちのバイトリーダーも幹人君と同じ大学だったんじゃないかな。今日この後のシフトに入ってるはずだから、よかったら後で軽く声かけといてね」

「ほんとですか? 頼もしいです」

「またシフトとかの連絡は後でするから。じゃあまた」


深くお辞儀をしてからドアに寄り、またお辞儀をして裏口を出ると、じわじわと胸の中を達成感が満たした。バイト始めるってなんか大人な感じがして、いい。


あくびをかみ殺しながら外を見ると小さな小屋があった。近付いてみると、喫煙所のようだった。明かりが点いていて、軽く人影が揺れる。


これから一緒に仕事する人かもしれない。頬の筋肉を思い切り上げたり下げたりしていると、扉が開く。



挨拶しようとして──時が止まった。



「幹人くんやん!」


金色の長髪。独特な関西弁。俺はこの人を知っている。


「……永田さんですか?」

「えーもう名前覚えてくれてんの? むっちゃ嬉しいわあ!」

「そりゃあ、もう、はい」


ジョッキ事件を忘れられるわけがない。むしろ忘れられるなら忘れたい。


永田さんは喫煙所の扉を片手で雑に閉める。


「どうしたんこんなところで。真昼間からお寿司食べに来たん?」

「いや、実はバイトの面接で」

「そうなん! え、店長に聞いた? 俺ここのバイトリーダーしてんのよ」

「……マジすか」

「うん、よろしくなあ」

世間の狭さに声が出ない。永田さんの蛇のような眼が遠慮なくじっと見つめてくる。


「幹人くんさあ、飲み会の日、ほんまにごめんなあ」

「──っえ」


想定しない言葉に面喰う。見ると、本当に申し訳なさそうに眉を顰めていた。


「あの日な、サークル長に就任したてやってん。場なんとか盛り上げようと思ってな、空回りしてもうて。そのせいで結果的に幹人くんに嫌な絡み方して、アフターフォローもできんかった。謝って済むことでもないけど、ほんまに申し訳ない」

「いや、実際ジョッキ落としたのは事実だし、謝られること一つもないですし」

「それでも。けじめとして謝らせてくれ。ほんまごめん!」


頭を深く下げられてつむじが見える。根元まで黄色い。


「全然いいですって。それより、これからバイトで迷惑かけるかもしれないですし。頭上げてください、ほんとに」

「ほんま? よかったー!」


永田さんは口を大きく開けて笑う。飲み会の日とは違う笑い方。


案外悪い人じゃないかもしれない。第一印象でこの人のことを決めつけていたのかも。


「ちなみに幹人くん、担当どこだって店長に言われた?」

「キッチンです!」


元気よく答えると、永田さんが歯を見せた。


「ほな、もうジョッキ落とさないようにせんとな!」


上げた頬が引きつる。前言撤回、やっぱこの人苦手だ。





一人暮らしをしているアパートは下北沢駅と池ノ上駅の中間にあり、どちらの駅へもアクセスはいいし治安もいい。下北沢駅前は毎週のようにイベントが開催され、今週はカレーフェスが行われるらしい。


この街は夢を持つ人とそれを応援する人で溢れている。


駅前では新人の芸人が無料ライブのビラを配っている。ライブハウスの周りにはギターケースを背負った人がちらほら。古着屋は一目で何店舗も目に入る。やりたいことにまっすぐな人たちが作り上げた街だ。


みんな、夢が叶うかどうかじゃなくて好きかどうかで動いている。


まだ俺にはまぶしくて見ていられない。視線をアスファルトに落とす。居場所を見失わないように、足元をしっかり見る。まだこの街では顔を上げて歩けない。


小さな路地に入ると、いくらかは人通りがマシになって視線を上げることができた。ちなだったらこの街だってスキップで行ってしまうんだろうな。人目を気にせずなんだって楽しんでしまう彼女にはまだまだ追い付けそうもない。



なんて考えていたらふとスマホが鳴った。〈非通知着信〉。通話ボタンに触れる。


『もしもし?』

『おはよう、ちなだよー』

『今日はどうしたのさ』

『あのね、今から本屋に付き添ってほしいんだ。できれば大きい本屋が良いんだけど……どこか知らない?』

『そしたら新宿の()()國屋書店とかどう? めっちゃ広いよ』

『さすが幹人! そうする!』


待ち合わせを三十分後に設定して、アパートに向かっていた足をくるりと方向転換させた。駅までの商店街をさっきよりか少しだけ胸を張って歩く。軽く目線を上げられる。誰も俺のことは見ていない。そりゃあ、そうだ。なんでもないことが嬉しい。さっきまで見ていられなかった視界がほんの少し明るく心なしか澄んでいる。


下北沢駅から新宿駅までは小田急線快速で十分もかからない。その便利さの代償なのか、他の線への乗り換えは信じられないくらい遠く難しい。東口まで出るには歩いて五分以上かかる。


紀伊國屋書店前のエスカレーターの前、平日の昼間は意外と人通りが少なかった。大学の最寄り駅とは違ってスーツ姿の人ばかりいてきもち背筋が伸びる。


三分待った。待ち合わせなんですという顔を意識する。

五分待った。きょろきょろと辺りを見渡して、一人じゃないんですよ感を振りまく。

十分経った。背中をどしんと押されて、振り返るとちながいたずらな笑みを浮かべていた。


「ちな様が参上」

「ちな様、十分遅れてるけど」

「ほんとにごめん、乗り換え間違えちゃった」


ちなは悪びれもしない。こういうとき、LINEでやり取りできたら余計な不安と疑いを持たないで済むのに。ちなへの不満がぽっと死神のように背中を叩く。


ちなは気にする様子もなくエスカレーターを上って、一段空けてその後ろを確保する。


「急に本屋行きたいなんて、読みたい本でもあったの?」


聞くと、ちながくるっと振り返った。


「〈臨床心理学入門〉って講義のために読んでおきたい本があって。売店じゃ買えなくて」

「あー分かる。教科書とか余裕で争奪戦になるもんな」

「そ。大学の図書館も探してみたけど、なくて横転」

「まあ紀伊國屋なら全然ありそうだけどな。いや、あることを祈る」


縦に長いビルを眺める。上京してから一度一人で来たとき、その大きさには驚愕した。一つのフロアはそう大きくないように見えて実は奥行きがすごい。みっちりと棚で埋まっているフロアが八階まであって上の階は専門書で充実していて一日いても飽きない。


ちなが独り言をつぶやくみたいに言う。


「私、上の階ぱぱっと見てくるから、幹人は二階で適当にぶらぶらしてて」

「俺も一緒に行かなくて大丈夫?」

「うん。見つからなかったら助けてもらうねん」


ちなは三階へのエスカレーターを上っていく。


一人本棚と相まみえる。大きく息を吸い込むと、肺の中に本屋特有の香りが広がって思わずニヤついてしまった。目が合った本棚に近付く。ゆったりと眺める。目を惹くタイトルがあって、カバーに指をかけると、滑らかな肌触りが嬉しい。


ぱらぱらとめくると、新しい紙の気持ちいい香りがした。触り心地もいい。カバーにも味がある。改めて帯にある推薦文を読み直してから、今度は目次をめくってみる。


本って、出会うときが一番楽しいかもしれない。物語に入り込んでいるときもそうだけど、何よりこれだという本に出会えた瞬間が一番たまらない。


本を手に取るだけのために、何重もの工夫がされている。そのことに気付いてからは、本屋に一日中だっていられる。施された仕掛け一つ一つにどうしようもなく心が躍る。


レジの近くに〈話題の本コーナー〉が展開されていた。SNSで話題になっていた本を中心に平積みされている。〈映像化された書籍コーナー〉には、最近キャスティングが発表された本がある。〈本屋大賞受賞作品コーナー〉では、書店員さんの声が多数。


本をこの世に出せる人って本当にすごい。最後まで書き上げられる人だってすごい。そもそも、本を書こうと考えて行動に移せる人はすごい。


強烈な尊敬に隠れて、妬ましさが小さじ一杯分ぽつんと皮膚の下で波紋を作った。一冊のために全てを捧げる人たちがいる世界は、かっこよくて、羨ましくて、憎いほど妬ましい。



〝小説家? 馬鹿言わないで。夢なんて見ないでそこそこの幸せを掴んで〟



だって、俺は目指すことすら叶わないから。


まあでも母の言うことも間違ってない。どうせ才能なんてないんだから、自分に過剰な期待をしたって無駄。そもそも俺なんかが妬ましいと思うのだっておこがましいことだし。


おこがましいことだ。なのに、目の前の本棚にある一冊から目を離せない。


「幹人、怖い顔してる」


気遣うような声に現実に引き戻される。振り返ると、ちなが大きな紙袋を持っていた。


「お、無事買えたんだ。よかったよかった」

「最後の一冊だった、セーフ」


ちなの下にはそういう小さな奇跡がいつも舞い降りる。


「幹人は何見てたの?」

「いや、適当に眺めてただけ」


ちなは俺の視線に合わせて棚を眺めた。


「ふうん。あ、これすごい。〈小説家になるために〉だって」

「……すごいよなあ。俺には縁がないけどさ」

「この本見てたの?」

「んなわけないじゃん、んなアホな」


笑い飛ばそうとしてみる。頬が攣りそうになる。


「幹人って本よく読むの?」

「高校の頃まではしょっちゅう読んでたな。ゲーム禁止だったし、それくらいしかやることなかったから」

「そっかあ」


ちなが言葉を継ぐ前に、〈小説家になるために〉が差し込まれていた本棚を離れた。


コーナーは変われど、高く平積みにされている本もあれば、目立たない場所に一冊しか置かれていない本もある。本を出版するだけで大尊敬だけど、きっとその先にも競争があって優劣が決められる。


ちなが立ち止まった。

「ちょっとさ、一度本屋出ない?」


階段を下りながら、ちなは何度も振り向いてきた。


「幹人さ、大丈夫?」

「え? 何が?」

「さっきからずっと苦しそうな顔してる。今だって」

「マジ? そんなことないよ」


笑顔を作る。うん、無理しなくても普通にできる。


「ううん、本屋さんにいたときからずっと。なんか無理してる」

「んなことないって。平気だよ」

「平気って、平気じゃないときに使う言葉だよ」ちなは俺の左の手のひらを掴んだ。

「とりあえずどこか店に入ろう」



触れて嬉しい気持ちよりも、心配させている自分が情けなくて息ができなかった。



まさかの永田さん再登場


あと、夢を否定されるって苦しいんだよな



次回、〈ちな〉に連れ出された先は

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