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第七章 ああ、これが「好き」なのかな



大して時間もかからないうちにマスターは料理を持ってきてくれた。


「お待たせ。ゆっくりしていってね」


お皿に盛られた、食パンの耳を切り落とさないタイプのサンドウィッチ。ちなが言った通り卵が溢れ出している。お手製カレーライスからはたまらなくいい匂いがして、添えられたパセリといい芸術品みたいな見た目をしていた。


「いただきます」


ちなは丁寧に発音してからサンドウィッチに手を伸ばした。親指と人差し指でつまんで、口元へ持っていく。一口食べて、口を動かす。とろんと溶ける目尻。


「卵におぼれそう……」


なんて幸せそうな顔。美味しさが伝わってきて俺まで口元が緩む。


冷めないうちに俺もスプーンを取る。わざわざマスターが二人分用意してくれた片方。ライスをすくって軽くルーにつけて口に運ぶと、強烈な野菜の甘みがした。


「……うっまあ」


素朴な味。だけど、この店でしか食べられないような隠し味が隠れていそうだ。


「ちな、なんでこんな店知ってるんだ」

「まゆ姉が教えてくれたんだ。穴場なんだって」

「前行った公園といい、こんな穴場知ってるのセンス有り余りすぎてない?」

「うん、自慢のお姉ちゃんだからね」


視界の端からマスターが水を片手に茶目っ気のある笑みを浮かべて寄ってきた。


「どう? お口に合うかな?」

「サンドウィッチ最高すぎます。私もう三切れ食べちゃいました」

「そうかそうか。よかったよ」


ちなの後を追ってマスターの目を見る。


「カレーライスも、これたまんないです。隠し味とかあるんですか」マスターは豪快に声を出して笑った。

「はっはっは。隠し味は秘密だよ。でも喜んでもらえてよかった」


本当に美味しいものに出会うと、人は会話がままならなくなる。無言のまま夢中で食べ進めていると、またマスターがやってきてマグカップをテーブルに置いた。


「ごめんね何度もお邪魔して。カフェオレサービスしとくから、よかったら」


マグカップの中から湯気がもくもくと立っている。マスターがカウンターに戻って新聞を広げたのを確かめて、ちなは恍惚とした表情を浮かべた。


「私、本当に来てよかった。もう思い残すことないや」

「心から同感。こればかりは講義サボった自分を褒めたい」

「──ねえ、聞いてよ。今日朝起きてね、ベッドから飛び出して、一番にノート見返したの」

「例の〈死ぬやり〉?」

「そう。そしたら最初のページに〈・お洒落(しゃれ)なカフェに行きたい〉って書いてあって。幹人に電話しようとしてから、ちょっとだけ躊躇した」

「なんで、すぐかけてくれればいいのに」

「思ったんだよね。私のやりたいことに巻き込むのは迷惑じゃないかなって」

「そんなの気にしないでよ。ちなのやりたいこと俺が応援したいだけなんだから」

「うん。だから勇気出して幹人に電話してよかった。こんな素敵なお店とサンドウィッチとマスターに出会えたから。やりたいことって、言葉にしたら案外簡単に叶っちゃうんだね」悲しそうな、満ち足りたような変な表情。正しい回答が分からないけれどスプーンを置く。

「叶えるってさ、いい言葉だと思うんだよな最近」

「え?」

「友達とゲームするときとか、『ウイイレしようぜ』って誘ったり誘われたりするの。でも、『一緒にこれ叶えようぜ』なんて大層な言い方はしたことなくて。当たり前のこと言ってるみたいだけど、やたら特別感あるっていうか、胸にグッとくるっていうか。ちなと、何をするかじゃなくて何かを一緒に叶える関係になれたのがめっちゃ嬉しい。……ごめん、途中から何言ってるか分からんくなってきたけど」


ちなは猫のように目を細めていた。


「幹人って、たまにすごく詩的な表現するね」

「クサかったよな。ごめん、急に」

「そうじゃなくて。私も今グッときてる。これからも、一緒に色んなこと叶えて欲しいな」


彼女の一言で俺は絶望もできるし有頂天にもなれる。


一気に目頭が熱くなってマグカップで顔を隠す。カフェオレをすする。苦さの中に甘いミルクを感じる。

なんとか黒目だけ動かしてちなを見ると、少し目を伏せてカフェオレをすすっていた。この光景を守れるなら、きっと俺は世界中を敵に回せる。





喫茶店を出て赤茶けた春の夕方の空に向かってちなはうんと腕を伸ばした。ならって腕を伸ばすと関節がパキパキと鳴る。

まだ時間はあるし、ちなと一緒にいたい。でも帰りたくないと直接的に声に出す勇気はまだなくて、代わりに駅へ向かう歩幅を縮める。


「まだまだ明るいなあ」

「明るいねえ。ちょうど五限が終わる頃かな」

「俺、明日全休だわ」

「私、一限だから、明日の準備のために帰らないと」


あわよくばまだ一緒にいたいという俺の目論見をやっぱりちなは蝶みたいに躱す。


あっという間に駅に着くと、改札の中から街灯の明るさが漏れ出してきていた。

ちなはまた切なげに遠くを見ていた。


「時間空くかもしれないけど、また電話するから」

「うん、待ってる」


「また」の語韻に俺の心臓はふわりと浮かび上がり、その「また」がいつを指すのかたまらなく不安で仕方なくなる。この感情の名前を俺はまだ知らない。


改札の向こうでちなの背中が小さくなっていく。



次はいつ電話が来るんだろう。期待して待つくらいなら、もう電話なんて来ないと諦めてしまった方が楽だ。そうやって生きてきた。人に期待したっていいことなんかない。いいことが起きるかもなんて思わない方がいい。落差があればあるほど何かあったときに余計苦しくなる。




なのに、ちなからの電話がスマホを鳴らすことをたまらなく待ち焦がれる自分がいる。



段々と〈ちな〉の不思議なとこが明かされつつありますが……


はたして、どんな秘密が隠されているんだろうか……

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