第五章 頭ん中君のことばかり
人を好きになるってなんだろう。
好きって感情一つを表現するのだって人がいるだけの数がある。日本だけでも一億何千万人。地球規模で考えたら七十億人。いくらなんでも途方もない話だ。
とある著名な文豪はそれを「月が綺麗ですね」と表現した。とある文筆家は好きな人と過ごす特別な日をサラダ記念日と呼んだ。とある画家は人を好きになるということは人生でもっともすばらしい生きる力になると評した。ノーベル文学賞を受賞した小説家は別れる男に花の名前を教えておけと言った。人の数だけ愛の基準が存在している。
俺にとっての好きってなんだろうと最近はよく考え込む。なんとなくだけど答えが出せそうな気もしている。たとえば、その人が生活の中心になること。その人を中心に回る世界をより美しく感じること。その人が好きなものを、同じくらい愛してしまうこと。
それこそ、目の前からいなくなってもその面影を一生忘れられないことだと思う。
◇
二限にある刑法の講義が終わると、疲労と開放感が同時多発的に脳みそを襲った。罪刑法定主義とか犯罪の成立要件とか、聞いたことのないワードは一度耳にしたところですぐ外へ逃げていく。溜息をつきながらプリントをファイルにしまう。溜息からも知識が逃げていく気さえするけど、これ以上にらめっこしたところで脳みそは働いてくれそうにない。
毎週火曜日を勇太とは「地獄の曜日」と呼んでいる。一限から五限までという詰まったスケジュールにくわえて、三限だけコマが空いているせいで時間の使い方が難しい。かといって家に帰れるほどの時間があるわけでもない。
「メシどこで食う?」
横画面にしたスマホから勇太は目を離さない。勇太はどの授業でもウイイレのオンライン対戦ばかりしている。講義中「っし」「クソが!」なんて声が横から漏れてくるたびにひやひやさせられているけれど、いまだに教授にはバレていないから(バレてるかもしれないけど注意されないから)、案外器用さよりも胆力の方が大事なのかもしれない。
ファイルをリュックサックに仕舞う。
「学食は混みそうだから無しとして」
「なー。でもさー、わざわざ外出るのもダルくね?」
「分かる。今から行っても絶対座れんって」
足早に食堂の方向へ向かう同級生たちが見えてますます気持ちが萎える。この時間の学食の席は争奪戦だ。席を確保しておかなかったせいで、トレーを持ちながら右往左往するかわいそうな人をよく見かける。ああはなりたくない。
「そんな腹減ってないなら一戦かまして人落ち着いた頃にでも学食行く?」
「そうしようぜ。まあ四限は間に合うだろうし」
勇太の提案に乗ってウイイレのアプリを起動させると、勇太の視線がスマホから外れた。
「そういや、俺あのサークル結局入ることにしたわ」
「マジ?」
「あの後永田さんとやたら仲良くなっちゃってさ。練習とか来なくていいからイベントだけでも顔出してって言われて」
「馴染みすぎだろ。……あのときさあ、迷惑かけるばっかで悪かったな、ほんと」
勇太はニヤニヤしながら肩を軽く小突いてきた。
「気にすんなよ。永田さんも悪いことしたって言ってたし。それよか、女の子と抜け出してった方が気になるわ! 何してたん?」
「何もないって。あれはほんとにそういうのじゃない」
「抜け出して何もないなんてことないだろ!」
「はいはい。早く試合やんぞ」
いなしながら、二人抜け出したあの夜を思い返す。
長岡さんとの出会いは、思い出しても到底、現実感がない。つまんない飲み会から二人きりで抜け出して、終電前まで公園でブランコを漕ぐなんて。
ドラマみたいな展開に一昨日はまる一日浸った。大学生活に光が差した気がした。
浸りきってから昨日、朝起きた。まだ電話は来なかった。
また一日が経った。連絡は来ないまま今に至る。正直、このままフェードアウトされるんだと絶望感がすごい。
「勇太ー」
「ん?」
「今時、LINEしてない子ってどう思う」
「同学年でそんなやついないだろ」
「いるとしたら」
「んー。なんか事情はあるんだろうけど怪しんじゃうな。LINEやってないんじゃなくて、俺に教えたくないのかなって思う」
「そうだよなあ」
絶望していたら早くも点を決められた。
「はい、先制」
画面の上で、勇太の操作するキャラクターが尻を振る。勇太が目の前で同じように尻を振ってきて親指に力が入った。
「相談してるときにずるいって」
「試合中に浸ってるそっちが悪いだろ。女のことなんか考えんな」
勇太がべっと舌を出しておどける。ムカつくけど笑ってしまう。
リプレイが終わって、センターサークルにボールが置かれた。もう負けない。試合を再開しようとしたところで、画面の上から覆うように通知が表示された。
〈非通知着信〉。スマホを落としそうになる。
なんだこれ怪しい。絶対出ない方がいい。でも。
〝講義の空きコマとかにかけてもいい?〟
長岡さんの面影がよぎって理性が全て吹き飛んだ。
「わり、電話かかってきたから中断」
「それはしゃーないな。後で再開な」
引き戸を引いて講義室を出ると、学食に繋がる渡り廊下に日光が差し込んでいた。外はまだまばらに人がいて、ぶつからないように壁にもたれて緑色の〈通話〉ボタンに親指で触れる。
『……もしもし?』
『もしもし。幹人君の番号で合ってますか?』
おそるおそる様子を窺うように問いかけてくる声は、紛れもなく長岡さんだった。どこか敬語がぎこちない。
『そうですが』
『わは、よかったあ。間違ってたらどうしようってすごいドキドキした』電話口のかしこまった口調がほどける。あの夜と同じ無邪気な声色。
『非通知だったからちょっと出るの躊躇したわ』
『そうだよね。出てくれないかもって少し不安だった』
『全然気にしないで。これからも非通知でかけてくれていいから』
『ありがと。それで、本題なんだけど──今からカフェ行かない?』
『今から?』
『うん! ダメかなあ? 今ちょうど講義が終わって、心理学部棟出たとこなの』
時間割を頭の中に広げる。四限には必修の第二外国語の講義が待ち構えていて、しかも出席点がかなりのウェイトを占める。急なカフェくらいじゃ欠席できない。
ごめん今日無理だ。また誘って。たしかにそう口にしようとしたはずだった。
『分かった。そしたらすぐ大学の正門に集合にしよ』
自分でも不思議だった。
今日長岡さんと会わなかったら、もう二度と電話がかかってこない不穏な予感。必要とされなくなるかもしれない唐突な不安。それらが、ほんの一瞬俺の脳みそを乗っ取った。
『やったあ! 今すぐ向かうねん』
声が離れたのを確かめてから電話を切る。長岡さんの語尾は四分音符が付いているみたいに跳ねていたから、これが正しい選択だったはずだ。
講義室に戻ると、ドアの音で勇太がぎょろっとこっちを見た。
「わり、この後用事できたから四限の講義出れんわ」
「マジ? なんかあった?」
「いやさ。この前の女の子から急に電話きて。今から会ってくる」
「一緒に抜け出した子? マジかよ!!」勇太が目を見開く。
「行くんか!!」
「すまん。この気持ちは、法律でも止められないっぽい」
「やかましーわ。しゃーねーな、俺出席カード代返しといてやるよ」
「相棒、恩に着るぜ」
わざとらしく勇太の手を握る。
「いいなあ、青春じゃねえかこの野郎」
勇太の大声を無視してリュックを背負うと、気持ちのいい重みが肩に広がった。
「今度話聞かせろよ!」
無視しても背中に届くでかい声。軽く手を振って返す。本当にいいやつだ。
講義室のドアは、さっきよりもずっとずっと、軽かった。
次回、長岡さんとのデートです
長岡さん、かわいい




