第四章 君のことがもっと知りたいから
ブランコに揺られながら空を見上げるとちかちかと光る物体があって、目を凝らすと飛行機だと分かった。お尻から雲を吐き出している。飛行機に乗ったことは一度しかないし、そもそも地元に空港がなかったからシルエットすら珍しくてずっと見ていられる。
正面で顔を合わせてないと、聞きたかったこともすらすら口に出せた。
「長岡さんって兄妹とかいる?」
「いるよう。三姉妹なんだ」
「長岡さんが何番目かたぶん当てられる気がする」
「ここでさっきの仕返し?いいよ、当てれるものなら当ててみて」
長岡さんの声が漕ぎ出すブランコの高さに合わせて大きくなったり小さくなったりする。
天にまで届きそうなスニーカーに向かって俺は声を張る。
「末っ子でしょー‼」
「え! なんで分かったの⁉」
少し小柄で、笑うと出てくるえくぼとか、ブランコに一番に飛び乗るところとか、俺よりも高く漕ごうとする負けず嫌いなところとか。そこが彼女の魅力でもあるのでわざわざ口にはしないけど、当てることができた単純な喜びが皮膚の下に充満する。
「一人っ子だから上手く想像できないんだけどさ、姉妹ってやっぱ良いもん?」
長岡さんが大きく漕ぐのをやめた。
「もう最高だよ。仲良くて、どんな些細なことでも共有したりもするし。でも約束守れなかったりするとすごい怒られたりもするよう」
「約束ってたとえば?」
「ほら、門限守れなかったりとかすると。お姉ちゃん心配性なの」
長岡さんのお姉ちゃん。なんとなくそのシルエットが思い浮かびそうで浮かばない。
「俺一人暮らしだから門限ないよ」
わざとらしくピースしてみせると、長岡さんは唇を尖らせた。
「ねえズルい。私外泊したこと一度もない。一人暮らしってやっぱり楽しい?」
「実家暮らしよりかは楽しいな。時々ふと寂しくなる時もあるけど」
「そっかあ。一人暮らしって大人だなあ」
長岡さんが羨ましそうに空を見上げた。さっきのとは違う飛行機が飛んでいて、俺は誰に言うでもなくつぶやく。
「あの飛行機、沖縄とか行くのかなあ」
「待って、私も沖縄行きたい。今からでも乗せてくれないかなあ」
「もう遅いでしょ。もし行けるとしたら何する?」
「私は欲張りだから詰め込むよ。着いたらレンタカーで美ら海水族館に行って、帰りに手作りジュエリー体験するの。お昼はA&Wでハンバーガー食べて、夕方前に海水浴。次の日は朝早く起きてスキューバダイビング」
「なんかやたらリアルじゃない?」
長岡さんはあっけらかんと答えた。
「だって実際にスケジュール組んだことあるもん。私は妄想旅行って呼んでるけどね」
「……妄想旅行」
「そう。実際には行かないけど、予定だけ立てて楽しむ」
発想にハッとさせられる。長岡さんはやりたいと思ったことにはとことんまっすぐで、それが実現するかしないかは最重要事項ではないのかもしれない。
月が建物を縫ってぬるりと浮かんでいた。磨りたての墨汁みたいな色をした空を、長岡さんの願いを乗せて飛行機がぐんぐん加速する。
居酒屋でコールしている連中のことを思う。あれも一つの楽しさなんだろうけど、見上げたって月は見えない。それって少しもったいない気もする。アルコールで繋がる関係もいいけど、アルコールがなくても繋がれる関係の方が、上手く言えないけど透き通った感じがしていい。
ふと隣に視線をやると長岡さんの目元が切なげに遠くを見ていた。居酒屋で見たときみたいな、諦めの交ざった視線。
何故か変に不安がよぎって、振り払うようにブランコを再度漕いだ。
「俺、長岡さんといるとやたら楽しいわ!」
もう一度地面を蹴ると、ブランコの揺れに合わせて視界が大きくなったり縮んだりする。
「急にどうしたの!」
長岡さんの返答が風を切る音に混ざって鼓膜に届いて、俺はその声量に負けたくなかった。
「なんか! ここ最近で! 一番楽しかったから! ブランコに乗ったのも久々だし! ありがとうって! 伝えたくなって!」
「そっかあー!」
なんだか顔が熱くなってきた気がして一層太ももの裏に力を込める。顔を見られるわけにはいかない。重力に逆らってぐんと身体が宙に浮かび上がるのを両手で抑え込む。
すると隣から風を感じた。長岡さんがちょうど隣に重なるようにブランコを漕ぎ始めていた。同じタイミングで空中に身体が浮き上がって、それがおかしくて笑ってしまう。
「私もね! 飲み会からしたら考えられないくらい幸せ! 幹人君! 聞こえてるかな!」
くすぐったい声が公園に響いた。公園の入り口から散歩中の犬がこっちを見ている。構いやしない。漕ぎ続ける。慣れないお酒で酔ったのかもしれない。でもこの現象が単にアルコールのせいではないと自分自身が一番分かっている。
ブランコに飽きて長岡さんの影は滑り台に向かった。鬼ごっこみたいに影を追いかけると、彼女は滑り台の上に立って「ここを秘密基地にしよう!」と叫ぶ。できることなら長岡さんと小学生の頃に知り合いたかったなと思う。
おいでおいでと手招きする長岡さんを目指して滑り台を逆走する。スニーカーが金属で滑るのを、なんとか踏ん張る。登り切って華奢な身体の隣に腰を下ろすと、ちょうど二人でいっぱいになってしまった。長岡さんが小柄なおかげで入れたのかもしれない。
いざ座ると思っている以上に長岡さんの顔が近くにあって首筋が石みたいに硬くなった。小さなサンダルとナイキのスニーカーが横並びで触れて、足首が固まる。息を吸う音がすぐ耳元で聞こえて、上半身が固まる。
「ねえ、見て」
長岡さんの声で緊張が解けた。首を動かして隣を見ると、また空を見上げていた。
「ここからだと建物に邪魔されずに月がよく見えるの」
「ほんとだ……」
逆らわず見上げると、さっきよりも月がくっきりと見えた。くすんだ黄金色とグレーとが陰を作って、時折恥ずかしそうに雲に隠れる。
「私、満月よりもちょっと欠けてるくらいの月が好きだなあ」まさに今見てる月がそれだった。
「なんで?」
「満月ってなんか得意げじゃない? 俺は完璧なんだ! って自信満々な感じ」
「そのロジックで言うと、今日の月はどうなの」
「軽く欠けてて、不格好で、歪んでて。俺のことなんか誰も好きにならないよって不貞腐れてそうで、すごい抱きしめたくなる」
長岡さんの言葉に、より今日の月が愛おしくなる。歪んでて不格好。やたら自分と重なった。
月を眺めながら視界の端で長岡さんの整った横顔を捉える。月の明かりに照らされてなめらかな肌が発色している。薄い唇。筋の通った鼻。
……まただ。目元が切ない。
長岡さんを見ているとたまに危うさを感じる。脈絡もなく悲しそうな表情をした。かと思えば、一瞬目を逸らすとまたいつもの無邪気な表情に戻っていたりする。
その表情の理由を聞きたい。でも入り込めない。
逸らすように見た上空ではまた飛行機が雲を吐いていた。眺めていると、長岡さんがぽつりと降り出したての雨みたいにつぶやいた。
「──さっき、幹人君に偉そうなこと言っちゃったよね。あと一か月で死ぬとしたら? なんて。初めましてなのに知ったように言っちゃって」
「どうしたの急に。まったく気にしてないよ」
「正直言うとね、幹人君が『俺にはやりたいことない』って諦めたように言ってたの、本気でムカついてたの。なんでそんな悲しいこと言うんだろって」
「急にはっきり言うなあ」
「ごめんね、怒った?」
「いや、正直俺も刺さったよ。そんな視点で生きてきたことなかったから、ハッとさせられた部分もあるし。そのおかげで現に今こうやって長岡さんのこと誘う勇気もらったし」
長岡さんは目を伏せる。
「幹人君は優しいね」
切なげに長いまつげが揺れて、答え合わせをするように言葉を継いだ。
「実は私、長い間病気してたんだ」
「……病気?」
長岡さんは力なく頷く。
入院とか余命とか、そういうありがちで恐ろしいものが頭に浮かぶ。選ぶべき言葉が正しいのか分からず、横目で長岡さんの表情を窺う。
「入院とか大変だよな。しんどいことも多いと思うし、なんて言えばいいんだろう……」
つたない俺を見て長岡さんはあっけらかんと笑った。
「わはは。そんな深刻なやつじゃないの。今は治療中、いやもう治る直前くらい? びっくりさせてごめんね」
「……本当に大丈夫なやつ?」
「もちろん。死ぬとかそういうのじゃないよ」
「マジでビビった、脅かさないでよ」
「病気だったっていうとみんな途端に気を遣い出すのが面白くて」
長岡さんはわははと笑う。月に照らされた病的に白い肌のわけがストンと腑に落ちる。
「だから病院に通ったり治療受けたりで、自由がずっとなくて。中学校の頃から最近まで」
「学生の頃ずっと?」
「そう。やりたいことはたくさんあったけど、見てるしかなかったから。妄想旅行もその時期に生み出した技なの」
彼女がわざとらしく明るく話しているのが分かって、胸が詰まった。
長岡さんの病気と同列に語るつもりはないけど、放課後、同級生たちがやりたいことをやっているのを眺めるしかないって想像以上に辛いことだ。自分だけ、なんで普通のことが叶わないんだって目に入る全てを呪いたくなる。
なのに、長岡さんは明るく話す。
「その頃くらいから、やりたいことをバーッてノートに書きこむことにしたの。今は無理でもいつか絶対叶えてやるぞってね」
「子供のときから長岡さんは頼もしかったんだ」
「わはは、そうかも。くよくよしたって病気は治らないからね。それで、やりたいことを綴ったノートに名前つけたんだ」
「なんて?」
長岡さんはわざとらしく咳払いした。
「〈死ぬまでにやりたいことノート〉」
そのままのネーミングにむせてしまう。
「待って待って、さすがにあまりにも直球すぎやしない?」
「まあ実際に死んでないから少し大袈裟なんだけどねん」
長岡さんの言葉がいちいち刺さる理由をじわじわと理解した。この人は俺と正反対だ。ままならない世界をただ憎んできた俺と、どんな苦しい状況さえも前向きに向き合おうとしてきた長岡さん。
居酒屋で彼女が光って見えるのは当然のことだった。
長岡さんの足元を見る。サンダルから覗く、健康的な水色の靴下。
「一応聞くけど、体調はもう本当に大丈夫なのね?」
「……うん。病気は一か月以内に完治するって先生も言ってた。百パーセント」
胸を撫でおろすと同時に──さっきの発言を思い出して唇の皮を噛む。
「長岡さんの事情知らずに、『生きてるけど死んでるみたい』とか言っていいことじゃなかった。ごめん」
「いいよいいよ。幹人君は事情知らなかったわけだし。それにね、今私感動してるの」
長岡さんが顔を上げた。何かをやり遂げたようなスッキリとした笑顔で。
「実はね、ノートの一つ目に〈・公園で思い切り遊ぶ〉って書いてたんだ。まさか叶うなんて思ってなかった。子供の頃の私が見たら驚くんだろうな」
身体全体が包まれるような感覚が走った。さっき俺が長岡さんの言葉に救われたように、彼女のノートの一つ目を叶える手助けができたんだとしたら。
なんて素敵なことなんだろう。
「俺、長岡さんの病気すぐにでも治ってほしい」
「……ありがとう。この話初めて人に話したんだ」
長岡さんはわははと控えめに笑う。近くで見ると八重歯がある。口元には小さなホクロがある。
少し勇気を出して近付けば今まで知らなかったところが見える。当たり前のことを、世紀の大発見だと思った。もっと近付いたら、一緒にいたら、距離を縮めたら、長岡さんの知らないところに触れることができる。外見だけじゃなくて中身だって。
もっと知りたい。それはもう長岡さんのためというよりは自分のための願いだった。
「長岡さんのノートに書いてあること、一緒に叶えさせてよ」
「……え?」
長岡さんの口がぽかんと開く。
「長岡さんの言葉で救われたの。今までの自分バカだったんだなって。もっと素直に生きていいんだって。だからさ、やりたいこと叶える手伝いさせてよ。ほら、一人じゃできないことも二人でなら叶えられることだってあるじゃん。そうやって長岡さんが夢を叶えていくとこ、近くで見たくなった」
一瞬眠っているような沈黙があってから、小さな声が聞こえた。
「私ワガママだよ?」
「全然気にしないよ。むしろ言ってくれていいよ」
「突然電話したりするかも」
「いつでも出るから任せて」
「講義休んででも来てくれる?」
「それは要相談だけど。あー、行くよ。必ず行く」
「……ノートに書いたこと、全部叶えられるかなあ?」
「二人だったら、できないことないでしょ」
喜ぶ顔を期待して言い切る。子供みたいに無邪気に跳ねる声を待つ。えくぼが見たい。「わはは、幹人君は自信家だねえ」と不器用に笑ってほしい。
一拍置いても何も聞こえなくて、不安になって隣を盗み見ると、目が合った。
その途端、長岡さんの目が一瞬で潤んで、みるみるうちに涙が瞳を満たした。
「……っうわあああ!」
「え!? ……ごめん、急に馴れ馴れしかった?」長岡さんはぶんぶんと首を横に振る。
「違うの、本当に嬉しくて。ごめん、ごめんね」
Tシャツの裾でごしごしと目元を拭う。隙間から泣き笑いのような表情が覗く。
「本当に平気なの。ごめん急に泣いて、キモいよね」
「キモくなんかないよ。その、心配なだけで」
長岡さんは顔を伏せて、膝元からくぐもった声を出した。
「無理難題押し付けるからね。遠く行きたいって急に言うし、急に電話するから」
「任せてよ。もう覚悟はできた」
長岡さんは今度こそ本当の笑顔でこっちを見上げた。
ああ。
嗚咽をする彼女の頭を撫でてあげられるほどの器量はない。でもいつか彼女の悲しみを知って受け入れて撫でてあげられるようになりたい。
長岡さんはどこまでも表情豊かで、壮絶な過去があって、俺はその理由の全てを知りたい。
◇
道玄坂の信号を待ちながら遠くに見える渋谷駅前はまだ明るい。
渋谷駅までの道は長岡さんの方が詳しくて、マップも見ずにてくてくと歩く姿は頼もしかった。
「家どこなんだっけ?」
「山手線沿い」
「じゃあ、改札まで送ってくよ」
酔っ払いから彼女の身体を遠ざける。彼女の涙を見てから変な正義感が心の中に芽生えていた。混とんとした街の中で、長岡さんだけが神聖で何よりも綺麗だった。
JR線のガード下で、あれだけ泣いていた長岡さんはすっかり元気を取り戻していた。足元はお得意のスキップ。さっきよりも軽快だ。
「私の〈死ぬやり〉、かなり多いけどついてきてよね」
死ぬやり。ぽかんと知らない単語が浮かんで、意味が追い付いてきて思わず噴き出した。
「〈死ぬまでにやりたいことノート〉をそんなポップに略すなよ」
「バンドの名前とかでありそうじゃない?」
楽しそうに笑う彼女の目元は少しだけまだ腫れぼったくて、勇気づけたくて言葉を絞る。
「なんだって付き合うから。何個でも、何百個でも。言ってくれたら必ず行くから」
「頼もしいね。ま、何百個はさすがにないけど」
長岡さんのえくぼが暗闇にすとんと溶ける。
こんなに順調なのになんか重要なことを忘れている気がした。アルコールの抜けない頭をどうにか動かすと豆電球が光った。
「そうだ、連絡先交換しない?」
「あ、確かに」
長岡さんがスマホを取り出してから、思い出したように言う。
「交換したいんだけど、LINEやってなくて。電話番号聞いてもいい?」
今どきLINEをやってない? なんだか遠回しに拒否された気分になる。落ち込んだのを悟られないように声のトーンだけ無理やり上げる。
「おっけ。電話番号ね」
十一桁の数字を暗唱しながら、彼女なりの事情があるのかもしれないと思い直した。勝手に相手の事情を自分に都合悪く変換して落ち込むのは俺の悪い癖だ。
長岡さんは、大事な宝物を抱えるみたいに数字をスマートフォンに打ち込んだ。その様子を見て、落ち込んだ心は単純ながら復活する。
JRの改札前からハチ公前にかけては別れを惜しむ人たちで溢れていた。一緒に連れだって改札を通っていく人たちが羨ましくてたまらない。未練を断ち切るように彼女に向き直る。
「電話、いつでもかけてくれていいから」
「講義の空きコマとかにかけてもいい?」
「任せて。俺、友達少ないから絶対出られるよ」
「わは。友達少ないとことか、とことん私たちは似た者同士だね」
改札の前で、長岡さんは上目遣いをしてみせた。涙袋がぷくりと膨らむ。少ししか時間を過ごしていないのに、すでに何度も彼女の小さな仕草に恋をしている。
「じゃあ俺、京王線だからここで」
「わざわざ送ってくれてありがとう。ほんとに楽しかった。じゃあ、またね!」
また。またがある。言葉一つでむくむくと嬉しさが湧いてくる。なんていい言葉なんだと感動すら覚える。
長岡さんが踵を返す。やっぱりまだ大切な何かを忘れているような気がする。あ。
とっさに右肩を掴むと、びくりと肩を震わせて彼女は振り返った。
「……どうしたの?」
「実はさっきよく聞こえなかったんだ。長岡さんの下の名前、知りたくて」
長岡さんは斜め上を見て少しだけ逡巡する。んーと唸ってから淡い桃色の唇が動いた。
「ちなだよ。長岡、ちな」
言って、手元からするりと華奢な肩が抜けた。改札の向こうで背中が見えなくなるまで、忘れないように、俺はその名前を心の中で繰り返した。
机に残されたメモ
まゆ姉へ
本当にごめん。今日も帰るの門限ギリギリになっちゃった。もう絶対ないように気を付ける。本当に反省。あとね、聞いてほしいことがあるんだ! というより、共有したいことなんだけど。実はね、ちょっと気になる人ができた。幹人君って人。私のやりたいことに付き合ってくれる、物好きだけど優しい人。また次も会うと思う。楽しみだなあー!!
ちなへ
今日もお疲れ様。門限に間に合ったなら全然いいよ。ちょっと羽目外したくなる気持ちは分かるから。でもあんまり遅くまでは外出ないように気を付けて。何かあると怖いから。あと、できれば特定の人にも深入りはしないで。何かあってからだと危ないし、さよのことも考えてあげてほしい。




