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第三章 小さな公園でつかみどころのない君と



叶えたいことを口に出すのが怖くなったのはいつからだろう。



サッカーをやめてから中高の間は書道部に所属した。活動自体少なくかなり暇だったから、放課後の空き教室からシャーペン片手にグラウンドを眺めた。元チームメイトが走り回っているのは、かっこよくて羨ましくて妬ましくて見ていられなかった。


母は相変わらず厳しくて、スマートフォンも持たせてくれなかったし、ゲームなんてもってのほかだった。塾のない放課後の行き先は自然と図書室一つに絞られた。


だから、読書は俺にとって最高の娯楽で唯一の現実逃避だった。本を読んでいる間だけ、クソほども面白くない日々を忘れられた。極端なことを言えば、本の中で俺はサッカー選手にだってなれた。なんにだってなれた。


本の中のキャラクターは、まるでそこにいるみたいに動いていた。主人公や脇キャラに、ときに自分のことのように感情移入した。たぶん一年間で二百冊近く読んだ。


高二の頃になってから、心の中で作家という夢が明確に芽生え始めた。読み手ではなく、自分が人を感動させる側になれたら。それが無理でも、本にかかわる仕事ができたら。調べるうちに、文章を書く人は出自にある程度の差はあっても大抵文学を学んでいる人が多いと知った。


文学部に入る。それまでやらされていた勉強と叶えたい夢が繋がった瞬間だった。


帰ってから、自分の中で形になりそうな熱を母にぶつけた。小説家になるという夢と、そのために文学部に入りたいこと。


母は笑った。



〝小説家? 馬鹿言わないで。文学部なんてつぶしの利かない学部に入れるために今まで塾に入れてきたわけじゃないの。それよりも、経済学部とか法学部みたいな就職に有利な学部にして〟



ああ。あれだけ続けてきたサッカーも、本にかかわる仕事がしたいって夢も、全て。

やりたいことって俺が口にしたら叶わないんだな。



この辺りから今のひねくれた俺ができた気がする。やりたいことを表に出すやつや語るやつを下に見るようになった。その方が楽だったから。やりたいことと向き合えない自分を守ってあげられたから。文化祭で泣くクラスメイトに、本気で合唱コンクールに取り組む女子。漫画家になりたいと夢を語る友人。ほんと全員バカだ。何かに、誰かに本気になったって意味がないのに。期待したら後でしんどくなるだけなのに。



自然とそういうものから距離を取り勉強に励んでいたら世間でも知られるような難関大学の法学部に受かった。母は泣いて喜んだ。私の教育は間違ってなかった。こんな地方からでも道筋を与えてあげられた、と。


頭の中に浮かんだのは、喜びよりもようやく親と離れられるんだって安心感だった。でもまだ呪いは解けてないんだと思う。引っ越してきて一か月も経ってないくらいだけど、いまだにサッカーボールを思い切り蹴る夢と母に怒られる夢を毎週のように交互に見る。上京して一人暮らしを始めてもずっと。





「幹人君ってどこの学部?」


長岡さんのやさしい声が鼓膜を揺らした。彼女のはつらつとした声には嫌な記憶を吹き飛ばす作用があるみたいだ。


「一応法学部だけど」

「あ! 言われてみたら、ぽいねえ」

「どういう意味だよ」

「ほら言わない? 法学部はチャラいからチャラ法って」

「俺まったくチャラくないんだけど。そういう長岡さんはどこなの」

「心理学部だよ」


長岡さんに関する情報が脳裏できらきら光った。


「あんま想像つかないんだけど、心理って講義どのくらいあんの?」

「それがねえ、毎日ある。特に午前中の必修が多くて毎日七時起き。嫌になっちゃう」

「うひゃあ、それはえぐいな。ちなみに俺は全休二日も作れた」長岡さんはうってかわって真顔になる。

「ねえ聞いてないんだけど! 土日含めて週四休みとか許せない!」


出会ってから数十分。長岡さんの表情はころころ変わるから見ていて飽きない。色んな表情ができる人って素敵だ。特に俺は笑顔を作るのがぎこちない分余計に羨ましい。


くわえて長岡さんは会話を自然に繋ぐのが上手だった。


「法学部の人ってみんな弁護士とかになるの?」

「ほんの一部の人だけじゃないかな。もしみんな目指してたら街中、弁護士だらけだし」

「そうなんだ、知らなかった。幹人君はそういう資格系は目指さないの?」

「いや、もう勉強はこりごりだし、その辺の人と同じようにそこそこの一般企業目指すつもり」

「ふうん。それが幹人君のやりたいことなんだ」


痰が喉に絡んだ。

「……そもそも大人なんだからやりたいこととか夢とかないでしょ」

「えー、そういうものかなあ」


長岡さんは不思議そうに目を数回瞬かせる。この話題は危険だ。何かないかと首を振ると、視界の端っこにコンビニのロゴが映った。


「とりあえずお酒でも買う?」


長岡さんは表情を変えずに首を振る。


「お酒はいいや。それよりアイス食べようよ、居酒屋で食べそびれたし」

「チョコミントだっけ?」

「うん。もう全ての食べ物の中でも優勝」


そうと決まると、音符が聞こえてきそうなほど長岡さんの足取りが軽くなった。つられて影まで無邪気に踊る。彼女が楽しそうだと俺まで嬉しくなる。俺の影も渋谷の街を静かに踊る。


目についたセブンイレブンの自動ドアを通過すると、中央を長く延びる列があって、避けるようにして進んだ。アルコールの棚からウーロンハイを手に取って、ショーケースの前で立ち止まる長岡さんの元へ歩く。


長岡さんは小ぶりな唇を噛みしめていた。


「なにで迷ってんの」

「チョコミントが二つもあるの。困る」

「片方はまたの機会にしたらいいじゃない」

「だって、またの機会に残ってなかったら絶対後悔する」

「そしたらどっちも買えば?」

「二つだと特別感がなくなっちゃう」


子供みたいに悩み続ける長岡さんを置いて先にウーロンハイを会計して、店の前にあるのぼりの前で待つことにした。数分して長岡さんが笑顔を浮かべて小走りでやってくる。手元には薄緑色の包装がひとつ。

いそいそと破って棒にかぶりつくと、至福の表情を浮かべた。


「最高に美味しい……あげないからね……」

「俺、何も言ってないのに拒否んないでよ」

「だって幹人君の目が欲しいって訴えかけてきてるんだもん」

「なんて被害妄想だ」


眺めていたら口寂しくなってきてプルタブに指をかけ、プシュッと音がしたのを確かめて飲み口に口を当てる。居酒屋で飲んだお酒より美味しいのは、きっと長岡さんが隣にいるから。


足の向くままにさまよっていると前の方に人だかりが見えた。宮下パーク。もともと多い人通りにカメラを構える人がちらほらいる。


「あれ有名人らしいよ。見たことある?」

「知らない。私、実はそういうのめっぽう疎い」

「ほんと? 実は俺も恥ずかしながらまったく詳しくなくてさ」長岡さんがぱっと顔を上げた。

「……ほんとに? 私に合わせてくれてるとかじゃなくて?」

「いやマジなんだよ。インフルエンサーとか俳優の名前とか興味ないしまったく分からんの」

「私も! 友達とそういう話題になっても何も答えられなくて場を凍らせたりするから……まさか幹人君も仲間だったなんて、嬉しいな」

「親が異常にネット関係に厳しくてさー。高校くらいまでSNSとか禁止されてたし」

「わは、私も私も。なんなら今もスマホの制限されてる」


思わず噴き出してしまう。悲しい共通点でしか得られない友情がそこにあった。


「俺さあ、小学校の頃からゲーム禁止だったんだけど。小学生の頃隠れておじいちゃんに買ってもらったたまごっち、母さんに捨てられたことある」

「ひええ、厳しすぎるっ」長岡さんが怯える。

「私はねえ、なんと今も門限ある。二十二時までに帰らないと超怒られる」

「ひええ、厳しすぎるっ」


口調を真似ながら左腕にはめた腕時計を見る。八時半。


「ってことは、あと一時間半もないってことか。シンデレラも同情する早さじゃん」

「そうなの。私にはガラスの靴を落とす暇もないの……」


長岡さんの冗談に声を出して笑ってしまった。コンプレックスを笑いに変えてしまう強さ。

まさか不幸自慢でこんなに楽しくなれるなんて。誰にも話したことのなかった過去がまるごと救われたような気がしてくる。



渋谷の街を縫って歩く。ところどころ、足元に散乱した缶のゴミがある。それすらもキラキラして見えるのは若干浮つきすぎているかもしれない。なんだか視界もフラついている。


長岡さんが気遣うように顔を覗き込んできた。


「幹人君大丈夫そう?」

「や、ちょっと人に酔っただけ。にしても人すごいね、一生分の人と会ってる感覚」

「そしたらさ、近くに人が少ない穴場な公園あるから、そこ行かない?」

「お、そういう場所めっちゃ気になる。この辺り詳しいの?」

「昔から通ってる病院がこの辺りにあるの」



長岡さんを先頭にラブホテル街を通るとカップルっぽい人たちとすれちがった。目を逸らすと、フードの隙間からうなじが見えて思わず立ち止まる。彼女は気にすることなくそのまますたすたと行ってしまって、一人意識しているのが恥ずかしくなる。


長岡さんの斜め後ろにいると発見があった。長岡さんはスキップを踏むみたいに歩く。この世の些細なこと全てを楽しんでいるみたいに。


「長岡さん、すげえ楽しそうだね」


長岡さんはこっちを振り返らない。


「楽しいよ。……あんなおかしな飲み会で一日が終わるかと思ったら、まさか一緒に抜け出してくれる男の子がいるなんてさ。一緒に公園行くなんて想像もしてなかったから」


彼女は感情を隠すことを知らない。だから俺もつられて少し素直になれる。


「それは俺も。こんな楽しい時間考えてもなかった」

「すごいことじゃない? 現実って、ドラマなんかよりずっと面白くてわけわかんないね」


長岡さんの言葉にどうしようもなく感激してしまう自分がいる。ならってスキップを踏んでみると本当に楽しくなってきて、やっぱり彼女は魔法を使えるのかもしれない。


彼女は同年代のそれとはどこか異なる感性を持っているように思えた。やりたいと思ったことを意識というフィルターを通さず即行動に移している感じ。楽しそうだと思ったことには全力で乗るし、つまんないと思ったらはっきりと距離を取る。そこには微塵の未練もない。まるで俺とは正反対。──物事を楽しむ天才だ。


スキップに合わせて長岡さんの短い髪が肩の上で揺れた。時折振り返ってこっちを見上げてくるのが嬉しい。サーティワンアイスクリームみたいに丸い瞳がくしゃっと潰れるのが嬉しい。彼女の歩いた後ろをなぞれているのが嬉しい。俺に物語を書く才能があったらきっと長岡さんの小説を書く──。



またこめかみが痛んで、同時に母の呆れ顔が浮かんだ。〝小説家? 馬鹿言わないで〟



楽しいことがあるたびにこうなる。打ち消そうとウーロンハイを呷ると長岡さんの背中が見えて、そこでようやく母の面影が消えた。




路地をいくつか曲がると公園に到着した。広めのバスケットコートくらいの大きさ。滑り台が一つとブランコが二つ。手の届かない鉄棒が三つ。四方を囲うように街灯が四つ。


「ラッキー、空いてるう!」


長岡さんは突然腕を振って走っていき迷わず奥のブランコに飛び乗った。俺はペースを崩さず歩いて隣のブランコに乗る。彼女みたいに感情を出せるようになるにはまだまだ修行が足りない。


「この公園ね、うるさくない手持ち花火ならしてもオッケーなんだよ」

「へえ、そういう公園最近じゃ珍しいね」

「そうなの。渋谷区でもここくらいなんじゃないかな」

「ここで花火したことあるんだ?」


俺のクエスチョンに長岡さんは舌を出しておどけた。


「知ったように言ってるけどね、したことはないんだ」


長岡さんが花火を持って身を縮めている姿が容易に想像できた。振り回しているのも想像できる。でも彼女には線香花火が結局一番似合いそう。


だから、ほんの少しの勇気を振り絞って伝えたくなった。


「夏が来たらさ、ここで一緒に花火しようよ」


彼女の返事を待たずにブランコを力いっぱい漕ぐ。照れくささが空高く吹き飛ぶように。


今日の俺は俺らしくない。それがたまらなく嬉しい。今まで嫌いだった鬱屈した自分が消えて生まれ変わった気がして。全て長岡さんのおかげ。遠くない未来にも彼女が隣に居てくれたら、なんて気が早いことを考える。身体が空中に浮かび上がる。景色が変わる。俺はきっと、この夜を一生忘れない。




次回 長岡さんの秘密が少しずつ明かされます


みんなの推理が楽しみ

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