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二章 こんな汚い世界で君を見つけた



地元は山梨県甲府市。甲府駅から歩いてすぐのマンションに住んでいた。


母親は都内出身で、当時では珍しく四年制の大学を出たそうだ。三十になる手前で父と結婚し何度かの転勤の末に甲府に住居を移した。


母は小二から俺に進研ゼミを学ばせた。小さい頃のことは記憶にないけど出来は相当悪かったらしい。かろうじて覚えているのは筆算の記憶。やり方がどうしても分からずに答えを写したら、後でバレて三時間近く怒られて夕飯を食べさせてもらえなかった。


小五からは地域で一番有名な大手の塾に入った。俺は四年から所属していたサッカースクールの時間が削られるのが嫌で、たまに塾と定期模試をサボった。



烈火のごとく母は怒った。マジで頭から炎が噴き出していたと思う。



東京の子は中学受験から準備して死ぬ気で争ってきてるの。英会話に通って英検取って、自分の武器を小さい頃から増やしてるの。サッカーなんてやっても何にもならないのに。


母の主張は家にいる間はずっと続く。


本当はサッカークラブの時間削って個人指導を受けてほしい。全てあなたの将来のためだよ? あなたのことを思って言ってるの。サッカーだって、あなたがしたいって言ったから仕方なく入れただけ。


母はたまに俺が国語の模試に名前が載ると頭を撫でてくれた。実はサッカーもそれなりに上手い方だったけど、そっちを褒めてもらった記憶は一度もない。


それでもサッカーが好きだった。シュートを決めて、駆け寄ってくるチームメイトの笑顔を見る瞬間が最高だった。だから中学校でも何の迷いもなくサッカー部に入ろうとした。


母は怒るというより呆れた。


もう充分でしょ? お遊びは楽しんだよね? 中学からは土日が潰されない部活に入って。

サッカー部に入るなら部費も出さないし選手登録もさせないから。それよりも高校は県内のトップ校を目指して。


俺は文化部に入ることになった。できるだけ活動の少ない書道部を選んだ。サッカー部に入った友達は相変わらず仲良くしてくれたけど、なんとなく距離ができた。距離を置いたのは俺の方だったかもしれないけど。


好きなことをやれてるやつが羨ましくて、あれから人との距離がよく分からなくなった気がする。




もはやカオスとなってしまった畳の隅っこでちびちびとウーロン茶を流し込む。


頻繁にトイレへ向かう人、行ったきりもう戻ってこない人。ミカちゃんは話しかけてくれた先輩とほぼほぼ身体を寄り添わせていた。こんな空間、高校でも見たことない。もう帰った方がいいのに逃げ出したふうに思われるのが癪で足が動かない。


昔からの不器用さと集団適性の無さには自分でもほとほと呆れてしまう。いつも肝心なとこでやらかして居場所を失くす。中学くらいからずっとそう。そういう設計にされたのだと神様のせいにしたくもなる。でも不器用とかそんな単純な話でもないのかもしれない。勇太はまた永田さんとは別の先輩と喋っていて、肩に力が入る。



オリエンテーションであいつに声をかけられて、俺と勇太はあぶれた者同士なんだとおこがましいことを思った。でもそれはきっと勘違いだ。



勇太は常にしたいことにまっすぐで、「浮かないために」みたいな下心がない。


視界の中で繰り広げられる風景はまるで別世界のようだった。浪人だから俺もっと飲めますと叫ぶ新入生。じゃあもっといけるだろと大きなジョッキを頼む上回生。いつの間にかミカちゃんはコールする側に回っている。


場に繋ぎ留められていた最後の糸がぷつんと切れた。もういいや。帰って一人で金曜ロードショーでも見よう。俺にはそのくらいが似合う。


畳の上の荷物を回収して顔を上げた。



「うわお」



思わず変な声が出た。


隣の卓の隅っこの席で、さっきのショートヘアの女の人がまだ光を放っていた。出っ張った柱を背に長い膝を軽く折り曲げて体育座りしている。足元にはさっき見た水色の靴下。


末っ子ちゃん。小柄な感じがそのネーミングにぴったりだった。


末っ子ちゃんの表情にだけ何故か面白いくらいピントが合う。視野を盗まれるって表現がぴんとくるくらい、俺は十数秒眺めたままでいた。


しばらくして末っ子ちゃんがぱっと顔を上げた。つぼみが花弁を咲かせる瞬間みたいだった。一方的だった視線がたしかに絡んだ。太陽が東から西へ沈むとか雨は必ず止むとか、そういう世界の理と同じように、そうなるべきだったかのように目が合った。


スプーンですくったアイスクリームみたいに真ん丸な瞳。でもどこか達観したような涼しげな目元。主張しすぎない小鼻は小動物を思わせた。膨らんだ頬にはつまんないという五文字が浮かんでいるように見える。俺がそう思いたいだけかもしれないけど。


卓の喧騒より心臓の方がうるさかった。心臓が外に飛び出しているのかも。そんなことはどうでもいい。なんで光って見えるんだろう。運命? それは言いすぎ。一目惚れって感じでもない。タイプってわけでもない。当てはまる感情を冠するワードを頭の中で探してみてもそのどれもが適切じゃない。



ただ彼女だけがこの空間の中で静かに光っていた。



末っ子ちゃんの視線がふっと畳の上に落ちて時間が動き出した。彼女は細い片膝を上げて立ち上がる。俺の方に来てくれるかと淡く期待したけれど、そのまま素通りして靴箱からサンダルを取り出して、水色の靴下は見えなくなる。向かう方向には喫煙所とトイレがあった。


彼女と話がしたい。後を追おうとする膝に逆方向への力が入った。目が合っただけの子にいきなり話しかけるなんてキモくね? いつからか形成された臆病さは簡単には消えない。こぼでも。視線を落とすと、畳の上にまだ薄くさっき溢した染みが残っている。



今日の俺、もう充分ダサいよな。



勢いを付けて畳の上に立ち上り先輩たちの肩をすり抜けて店のサンダルに足をつっかける。


お手洗いのマークがあるコーナーを曲がると壁に寄りかかる影があった。避けようとして、そのシルエットが末っ子ちゃんのものだと気が付く。


まるで俺が追いかけてくるのを分かっていたみたいに彼女はにっと口角を上げた。

笑うと頬の中心にかわいらしいくぼみができる。


誘導されたんだろうか。彼女の発した光にまんまと誘い出された俺。

壁にもたれかかったまま、彼女は薄い唇を動かした。


「君がいま思ってること、当ててあげるよ」

「……いや、急すぎて何言ってるか分かんない」

「ノリが悪いなあ。私ね、目が合うとその人が考えてること分かっちゃうの」

「そんな魔法みたいなことある?」

「うん。一字一句当ててあげるよ」


末っ子ちゃんは得意げにウインクする。


「絶対に?」

「絶対にだよ」

「そんなに言うなら──当ててみてよ。当てられるわけないけど」


茶色い瞳が全てを見透かしているように怪しく光った。


「こんな飲み会つまんないし、もう帰って金曜ロードショーでも見ようかな」


俺は呆気に取られる。


「……なんでそう思ったわけ」

「さっき言ったじゃん。目が合うとね、その人の考えてることがビビビって伝わってくるの」

「そんな、ほんとに魔法みたいなこと……」


おろおろする俺を見て末っ子ちゃんは噴き出した。


「なんてね、冗談。飲み会の途中でつまんなそうにしてた君を見て勘で言ってみただけ」

「マジ? 俺のこと見てたの?」

「うん。コールされて無理に飲もうとして、ジョッキ落としたところまで」

「それもう見られたくないとこ全部見られてる……」かあっと耳が熱を持ち始める。

「あー俺の負けだ。言う通り。もうこんな飲み会なんてしんどいし、帰る言い訳ずっと探してるとこだったから」

「ほら! やっぱりだ」


彼女は種明かししたそうに上目遣いをしてみせた。


「でもね、実は私も君と同じこと考えてたんだ。君のことつまらなそうとか言っちゃったけど、私だって大概。ぜんぜん雰囲気合わないしもう帰ろうかなと思ってたら、私と同じように浮いてる人発見しちゃって。それが君だった」

「ってことは、俺たち馴染めなかった仲間?」

「うん。浮いちゃった仲間。……みんな悪い人じゃなかったけど、私には合わなかったなあ」


末っ子ちゃんは浮いていたことを気にも留めていないみたいに笑う。合わなかったと言い

ながら、馴染めていない自分をまったく恥ずかしく思っていない。馴染もうともしていない。


「なんでこんな飲み会来たの?」

「サークルの飲み会ってさ、なんか響きワクワクしない? 憧れてたから顔出してみたけど、ちょっと思ってたのと違ったなあ」


そう言いながらも表情は明るい。なんか、みんな自分が確立されていて羨ましい。


楽しそうだからという理由だけで先輩に自ら話しかけに行く勇太。浮いていることを微塵も気にしていない彼女。空気を読もうとして結果的に一番読めてない誰かさん。


「しんどいなー」


無意識にそう口にしてから口を押さえる。一人で部屋にいるときにやってしまう独り言の癖。


末っ子ちゃんは気遣うようにこっちを見上げた。


「大丈夫? 気持ち悪い? 君、たくさん飲んでたもんね」

「いや、酒でじゃなくて──えっとさ、不器用な自分に疲れたというか、どこにも馴染めない自分が嫌いというか」初対面の子に何を言ってんだろう。「全部見てたでしょ?ふかん 俺さあ、この場に馴染まなきゃっていくら思ってもなんとなく俯瞰して自分のこと見ちゃってどうしても上の空になっちゃうんだ。子供の頃からずっとそうだった。空っぽなんだよ。周りと上手く打ち解けられないでから回ってばかりで。何がおかしいんだろう。大学入ったらって思ってたけど、簡単には変われないんだなー」


末っ子ちゃんは初対面の男の突然の身の上話に嫌な顔をしなかった。


「空っぽっていうのはどういう意味?」

「一言で言えば、やりたいことがない、のかも。学校も受験も部活もただやらされてきただけ。生きてるようでうっすらと死んでる感じ」

「……そっかあ、君は今死んでるのかあ」


末っ子ちゃんが壁から体を起こして俺の隣に並んだ。紅茶の匂いが一層強くなる。──あ、そうか、これカモミールティーの匂いだ。


茶色い壁を眺めながら、末っ子ちゃんの鋭い声が左耳の鼓膜を揺らした。


「そしたら、こう考えるのはどう? もしも、あと一か月で死ぬとしたら」

「……え? 誰が死ぬの?」

「君だよ。あと一か月で死ぬとしても、君にはやりたいことが一つもないの?」

「いやそんな急に言われても分からんし」

「いいから。想像してみて」


目を瞑る。あと一か月で死ぬなら。


まずこんな飲み会にずるずるいていいわけがない。なんなら浮いているとか気にしている時間も無駄だ。今すぐに帰って一か月でやれそうなことを書き出す。あまり家族で遠出したことがないから、水族館とかディズニーとかは一度は行ってみたい。あとはたらふくサーティワンを食べたい。大人になったらボックスパックで嫌になるほど食べてみたかったんだ。


目を開けると、すぐ近くに末っ子ちゃんの見透かすような視線があった。


「どう? 浮かんだ?」

「……めっちゃ浮かんだ」


自分の単純さに笑えてくる。やりたいことなんてない。期待するだけムダだ。そう他人を下に見て変われない自分を守ってきたのに、あと一か月で死ぬとしたら、その一言で欲望が胃の奥から湧いてくる。


目を見合わせる。


「ポッピングシャワー、嫌になるまで食べてみたい」

「いいね。私はチョコミントにするよ」

「水族館に行きたい。一番前の席でイルカショー観るんだ」

「クラゲのコーナーに長居してもいいよね」あとはもう思いつくままの応酬。

「焼肉行ってさ、順番なんて気にせず一発目からカルビ食べまくるとかどう?」

「いいね。明日のことなんか気にせず二郎系でマシマシ頼んじゃったりして」

「サイゼリヤで豪遊するなんていいかもしれない」

「辛味チキン二皿頼んじゃえ」


あと一か月で死ぬとしたら、人の目なんか気にするのがバカみたいだ。俺は今までどれだけの時間をムダにしたんだ。ちっぽけなプライドでやりたいことに蓋をするなんてありえない。


それに──一か月じゃ足りないかもしれないけど、恋だってしてみたい。

そう口にしようとしたら──ずきりとこめかみが痛んだ。母の(あき)れ顔が脳裏に浮かんで、言葉を呑み込む。やりたいことを俺が言葉にすると──いつも叶わない。


空いてしまった間を誤魔化すように明るく努めて言う。


「俺、こんなにたくさんやりたいことあったんだなー」

「そうだよ。生きてるようで死んでるなんて悲しいこと言ったらだめ。君はこれから何だってできるんだから」


末っ子ちゃんはお茶目に目を細めた。まっすぐな言葉選びに身体が熱くなる。


「ねえ、名前なんて言うの?」

「長岡──」


耳を澄ましたのに、卓からの割れるような笑い声で下の名前が聞き取れなかった。意図的に彼女が下の名前を言いよどんだ気さえして、聞き返そうとしたら末っ子ちゃんの声が遮った。


「君はなんて名前?」

「矢島幹人。木の幹に、人」

「幹人君、いい名前だ」


長岡さんは「さあて」とつぶやいて俺の目の前に立つ。


「金曜ロードショー見ないとだし、私はそろそろ帰るとするよ」

「見ないでしょ。……って、ほんとに帰っちゃうの?」

「ここにいてももう何も得られなさそうだし。幹人君も、無理して自分らしくいられない場所にいたらダメだよ」


どこまでも躊躇ない言葉選びに肩が痺れる。相手を思うというよりかは、自分が後悔しないための響き。


「また会えるかな?」

「大袈裟だな。──会えるよ、またいつか」



たぶんこれを逃したら会えないと感覚的に分かった。俺は間の悪い人間だ。どうせ断られる、断られたらダサい、そうやって、動けない自分を正当化する言い訳ばかりして。変われない理由を探して、後で悔やんで。


でも。あと一か月で死ぬとしたら。


「俺さ、あと一か月で死ぬなら」

「……うん?」


計るように見上げてくる長岡さんの視線をまっすぐに捉える。



「こんなつまんない飲み会なんか抜け出して、長岡さんと散歩がしてみたい」



自分で言っておきながら首元がさわさわした。でもこれでいいはずだ。あと一か月で死ぬとしたら、一か月しかなかったとしても、長岡さんともっと話がしたい。


彼女の頬にまたえくぼが咲いた。



「行きたい! 幹人君の誘い方、天才的だ」





もうそれからはずっと心臓が浮いている。


卓の様子を窺いながら最初の座敷に戻った。ちらりと視線を向けられただけで俺のいない卓は変わらず盛り上がりを見せている。どうやらサークル内恋愛の遍歴について話しているみたいだけど、もう気にならない。たとえ浮いていたとしても気にするだけもったいない。さっきまであんなに落ち込んでいたくせに長岡さんの言葉に二度救われている。


長岡さんと目線で所在を確かめ合いながらリュックサックを背負う。長岡さんは周りに「お手洗いに行きます」と言いながらちゃっかりと全ての荷物をまとめた。「え、長岡ちゃん帰っちゃうの!」「いやお手洗いですよ」「またサークルにも顔出してねん」「たぶんもう来ません」なんて、目ざとい先輩に絡まれてもそれを華麗に躱す。ブラボー! 胸がじんと熱くなる。この人とこれから二人きりで散歩するんだと言いふらしたくなる。


気配を消して勇太の元へ寄る。


「わり、俺先に上がるわ。もうちょい楽しんでって」

「おー。さっきはごめんな、無理やり来させて変なノリ強要させて」

「良いんだって。また学校でな」


こぶしを突き出すと、勇太は驚いた顔をしてから笑ってこぶしを合わせてくれる。


暖簾をくぐると気持ちのいい夜風が首筋を撫でた。気持ちいい、と意味もなく声に出してみる。渋谷の夜は相変わらずうるさくて、静かだった地元の駅を思い出した。どっちがいいとかは正直ないけど、長岡さんがいるというだけの理由でほんの少しこの街の方が勝ってしまっている。


店の前でそわそわしながら待つこと五分。長岡さんが暖簾の下からちょこんと出てきた。

目が合って寄ってくる様はさながら飼い主を見つけた犬みたいだった。


どちらともなく歩き出す。


「幹人君はどこへ連れてってくれるの?」

「ごめん。あんな大口叩(たた)いて、実は何も決めてないんだけど」

「何も決まってないくらいの方が、楽しいことに出会えたりするしね」


渋谷の街並みに長岡さんの横顔が溶ける。



期待してもどうせ叶わないのに、いつまでもこの眼に映していたいと思ってしまった。



次回 〈ちな〉と夜の渋谷で過ごす時間


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