一章 この世界がぼんやりと苦しくて
プロローグ
売店を目指して渡り廊下を歩くと、ところどころに陽射しが届いて四角い影ができていた。
昼休み、散歩がてら隣の棟にある売店までのんびり歩くのが大学二年になってからの日課だ。
春はいい。キャンパス中があたたかくて星の砂みたいにキラキラしている。肩のすぐ近くを横切っていく新入生はみんなソワソワとしている。中庭ではどこかのサークルが主催するバーベキュー。匂いはこちらまで届く。春の持つオーラってやっぱりすごい。
売店に着いて紙パックのカフェオレを選んで、会計して自動ドアを出る。
そこで足が止まった。懐かしい匂いがした。考えるよりも先に身体ごと振り返る。
カモミールティーの柔軟剤。君のこだわりだったから忘れられるわけがない。
その足で売店に戻ってシルエットを探すと、君はサイゼリヤのメニューにある間違い探しの一つ目よりも簡単に見つかる。あれだけ一緒に時間を過ごしたんだから当然だ。売店の中央に置かれた冷凍ショーケースの前で君は立ち止まっていた。
顔を見たのは数か月振りだった。髪が伸びて毛先は肩に付いている。艶のある黒い髪色と対照的に肌は相変わらず病的なほど白い。でも面影はまったく変わっていない。俺の知っている君がまだそこにいる気がして嬉しい。
でも数か月も経てば君の周りは俺の知らないことばかりで溢れているんだろう。分かっていることだけど、大事なものを抜き取られたみたいに胸の奥が寂しくなる。
昔みたいに話しかけようとしてすんでのところで思い留まった。もう顔を見かけても話しかけないと約束した。それが互いのためだって二人とも深く理解していた。
こんなに近いのに、声をかけることすら叶わないなんて。交わした約束に時間差で殴られる。喉の奥が詰まって、やるせなくて目を瞑る。
早く講義室に戻ろう。
踵を返そうとしたら、視界の片隅で君は冷凍ショーケースの中に手を伸ばした。その小さな仕草から目を離せなかった。華奢な手のひらの行く先をただ見据えていた。
君が手にしたのは、チョコミント味のアイスクリームだった。
◇
第二講義室に並べられた白い長机たちは、後ろから見るとまるでお弁当にぎっしり詰め込まれた白米のよう。八時四十五分、まだ室内に人は少なくて軽くこぶしを握る。一番後ろの端っこの席は、ちょうど真隣にある窓から風が入り込んできて涼しい。
駅から大学までは一キロ弱あって、早歩きすると四月とはいえ軽く汗ばむ。脇に滲む汗は鬱陶しい。それでも早歩きするのは、できるだけ後ろの席に座りたいから。背後からの視線を気にせずに済むし、教授からも当てられにくいし、講義に飽きたら窓から外の様子が見える。桜の花が散っていくのなんかを眺めていると案外暇つぶしにもなる。
でもみんな同じことを考えるのかそれなりに席の競争率は高い。だから一限がある日は早起きと早歩きを欠かさない。真面目なのか不真面目なのか自分でもよく分からない。
講義の十分前くらいから出入り口は駅の改札前みたくラッシュが始まり、確保した席からその様子を見下ろす。大体みんなまだ黒髪。たまに茶色とか金色がぽつぽつと浮かんでいて、まるで方程式で定められているみたいに、髪を染めた人の周りには同じような人が集まる。
やや後ろよりの席で赤色ジャージが「今日昼休みさあ、みんなでファミレス行かね⁉」と後ろにまで届く声で喋った。おお、すっげ。俺の耳はそういう声を敏く捉える。大学に入学したばかりなのに俺たちはもう友達がこんなにいます! イケてます! なんてアピールにも聞こえる。その友達と昼休みを過ごしたいんじゃなくて、ただ一人で過ごしたくないだけなんじゃないの? 口には出さないけど。
なんていうかみんな大学生になるのに必死だ。似合わない髪を伸ばしたり、奇抜な色に染めてみたり。わざわざ机にノートパソコンを開いているやつとかいるけどこの講義では使わないし、そういうやつって大抵背筋が爪楊枝みたいにぴんと張っている。
そこまでして大学生活に媚びてどうするんだろう。
でも頭の片隅で、もう一人の俺が言う。お前は大学生活に媚びることすらできないだけだろ? 他人の視線を気にして何もできないから、人のことばかり気にして見下して予防線を張って、変われない自分を正当化してるだけで。本当はお前だって変わりたいんだろ?
自意識と闘っていたら段々と頭が痛くなってきて、思考を放棄して顔を伏せた。机がひんやりとしていて気持ちいい。早くチャイム鳴らないかな。
「おい幹人起きてー。速報。バドミントンサークルの新歓が今日渋谷であるって。行こーぜ」
右の肩を叩かれて身体ごと軽く跳ねた。俺に声をかけてくる人間は一人しかいない。振り向くと勇太がA4サイズの用紙をぴらぴらとなびかせていた。蛍光灯の光で、隙間なく埋められた白い歯が反射する。虫歯になったことなさそう。
「バドミントンなんてやったことないよ」
「俺だってやったことねーよ。いいからとりあえず見てみー」
視界を邪魔するように垂らしてきたチラシを、仕方なく分厚い手のひらから奪い取る。軽く眺めてみると、やたら大きなフォントの文字が蛍光灯で光った。
〈毎週水曜・土曜日第一体育館にて開催☆初心者も大歓迎! 活動後はボーリングや飲み会も⁉ 新入生歓迎会4月10日開催:新入生は無料だからきてね!〉
軽く目を通しただけで背中がむずむずしてきた。こんなの音読したら恥ずかしさで軽く死ねる。手描きだろうか、中央に描かれたかわいらしいウサギのイラストと目が合う。今どきのサークルにはマスコットキャラクターがいるんだ。
サークル。飲み会。ボーリング。どれもちょっとワクワクする響き。
でも、こういうのにノリノリなやつってなんかダサい。
「どうせ飲みサーとかだろ?」
言うと勇太はやれやれというように大袈裟に手のひらを掲げた。太い腕には青白い血管が浮いている。高校まで硬式テニスをしていたらしい。
「いいの、飲みサーだろうがそうじゃなかろうが。サークルなんて実際に通わなくたっていいし、サークル側はとりあえず人を集めたいだけなんだから。俺たちみたいな一年生には合法的にタダ飯にありつける最高のチャンス&知り合いが増えるチャンス」
「そんな適当な感じで行っていいのかよ」
「大丈夫だろ。あまりにもダルかったら途中で抜け出せばいいし、ただでさえ俺たち入学したばかりで金無いんだから。こういうのは賢くしなくちゃ」
たしかに。高校卒業とともに親に手渡された通帳の残高には当面の間、不自由しないほどの金額が印字されていたけど、これからはバイトでやりくりしないといけないわけで、夕食代が浮くのは普通にありがたい。
それに、サークルとか飲み会とかに興味がないわけじゃない。中高の頃は部活とか文化祭とかそういうイベントから距離を取っていたけど、内心憧れもある。今まで上手く馴染めなかっただけで、案外友達なんかできたりして。
自分から誰かをサークルの飲み会に誘うなんて絶対考えられないけど、勇太に誘われたなら俺自身のちっぽけな自尊心に対してもなんとか面目が立つ。
まったく興味がなさそうな表情を意識して、心底だるそうに言ってみる。
「知らんけどさ、みんなこういう飲み会とか行くもんなの?」
「そういうもんなの」
折りたたまれた椅子を引き出しながら勇太は得意げに頷いた。勇太の底抜けな明るさは、たまにまぶしすぎるときもある。
三月初旬、一浪を経て志望していた都内の大学の合格通知が届いた。東京! 憧れのシティボーイ! 喜ぶ時間も束の間、一人暮らしするための物件探しや引っ越しと、てんやわんやの日々が過ぎ、光の速さで四月を迎えた。
慣れないスーツで入学式に臨んだ後、会場を変えてすぐオリエンテーションが開かれ、学期分の講義の履修選択の説明がなされた。仕組みは難解で、人気のある講義は抽選があったり、それぞれ期限が設けられていたり、取得単位の計算が必要だったりとあまりにも初見殺しのシステムにまみれていた。
予定していた時刻よりも早くオリエンテーションは切り上げられ、チャイムが鳴るよりもずっと早く教授たちは教室を去っていく。絶望的な情報量にぐったりとしながら椅子にもたれ、教室を見渡すと、初日にもかかわらずぽつぽつと輪ができ始めていた。
会話が行き交い始めた教室で俺は一歩も動けなかった。声のかけ方が分からなかった。きっと皮膚をはがして中を覗いてみたら、包帯でぐるぐる巻きにされた不自由な俺がハンドルを握って俺のことを操作しているんだろう。
だから勇太と学籍番号が一個違いだったのは大袈裟でもなく奇跡だった。
「履修登録まったくもって意味分からんかったんけど、よかったら一緒にやらんー?」
勇太のくしゃりと潰れた眉尻は懐っこくて、考える間もなく俺は首を縦に振っていた。
履修登録はなんとか二人で乗り越えた。勇太は長野県出身で、「県内に海がない」という一つの共通点で盛り上がり一気に距離は縮んだように思う。
でも一緒に行動するようになって二週間あまり、勇太がキャンパスで声をかけられるのをたまに隣で見る。俺には勇太しかいないけど、勇太には俺以外にも友人がいる。
勇太がいないときに一人で歩くキャンパスは居心地が悪い。
このままじゃだめだ。俺だって、変わらなくちゃいけない。
教授がホワイトボード横からのっそりと入ってきて、その存在に気付いた人から波が立つように教室中が静まり返った。楽単と呼ばれるこの講義は出席さえしていれば一番上の成績を与えられるらしい。勇太からもらった情報が頭の中でちかちかと点滅する。勇太がいなかったら俺のキャンパスライフは詰んでいた。
カーテンの隙間から差し込む陽射しで空中を舞うホコリがぱちぱちと光る。横目で勇太の表情を窺う。その飄々とした中性的な横顔目がけて、声を潜めてその耳元でつぶやく。
「あのさあ。今日の新歓、俺も行こうかな」
「お。そうこなくっちゃ」
勇太がぐいとこぶしを突き出してきて、一瞬躊躇してからそれにこぶしを合わせた。
◇
新入生歓迎会が行われる居酒屋は渋谷駅のハチ公口を出て五分歩いたところにあった。
「渋谷の地理さすがに分かりにくすぎだろー」
勇太がぶつくさ文句を言う。地方出身という弱みを生かしてあえて東京のことを悪く言うのが最近二人の間での流行りだ。
「ハチ公の周りだけで数年分の人とすれちがってる気しね?」
「な。しかもさっきナンパしてる人いたぜ? 断られたかと思ったら光のスピードで他の女の人のとこ行ってたし」
「俺ら、とんでもない街に来ちゃったんだな」
「混雑なんて無縁の愛しの松本市に帰りたいわー」
勇太はそう茶化しながら言うけど、俺はどちらかといえばテレビで見たことのあるスクランブル交差点を実際に目にした興奮の方が強かった。
大通りを抜けて迷路みたいな小路地に入ると、三階建てのそれらしき建物が目に付く。
〈幸ちゃん〉と店名が大胆に筆字で書かれている。紫色の暖簾を手のひらで避けると、額にタオルを巻いた店員さんに人数を聞かれた。「バドミントンサークルの……」と答えるとピンときた様子で奥へ向かう。店員の背中を追う勇太、その背中を追う俺。
着くと、案内されたお座敷から素性を窺うような視線がビシビシと向かってきた。
勇太が小声で耳打ちしてくる。
「幹人、まさかだけど緊張してんの?」
「いや、してねえし」
強がってみるけど余裕で声は震えた。勇太はそれ以上俺のことをいじらず座敷に向き直る。
「バドミントンサークルの歓迎会ってここですか!」
応えるように、卓の中央辺りにいる金髪がこっちを見た。
「お! 元気ええなあ、一年? まあ何年でもええわ、こっち上がって上がって!」
ナイキのスニーカーを脱いで既にぎゅうぎゅうの靴箱に押し込むと、四つあるうち一番通路に近い卓に座るよう言われた。隣に座る眼鏡の男の子に会釈されて「ども」と返す。
天井に、提灯を模した大きめの電球が何個も連なっていた。長い間見ていると疲れてくるくらい強い照明。でもそのおかげで長机の向こう側までよく見えて、不思議と誰が同級生で誰が先輩なのか感覚的に分かった。
畳の奥でだらっと胡坐をかいてニタニタ計るように見ているのはたぶん先輩で、掘り炬燵に向かって肩を強張らせているのは俺と同じ新入生。隣の眼鏡くんもそうだろう。大学生と大学生になろうとしている人は、上手く言葉にできないけど明確に何かが違う。
周りを見渡そうと片膝を立てると背中に何かがぶつかった。「あ、ごめんね」というはっきりした声と同時に、ふわんと紅茶みたいなやわらかい匂いが鼻孔に広がる。
「大丈夫っす」
一応小声でつぶやいてから妙に気になって振り返ってみた。
かろうじて視界に残ったのはグレーのパーカーとデニムパンツの後ろ姿、そして足元には水色の靴下。顔は見えないけどなんか全体的に光って見える。照明のせい? そのまま奥の座席に腰を下ろして表情は隠れてしまった。
追いかければよかったな、なんて不思議な感情が頭の中に浮かぶ。
勇太が肩を揺さぶってきた。
「おーい幹人、何をそんな見惚れてんの」
「いやさ、いま女の人が光ってたんだよ」
「……緊張しすぎてついにおかしくなったか」
勇太の呆れ顔を無視して卓に目を落とすと、ちょうど店員さんが料理を運んできた。こぶしサイズの唐揚げやだし巻き卵が大皿にどんと盛られていて、野菜炒めからは美味しそうな湯気が漂っている。
「旨そー」
勇太が箸を皿に伸ばそうとしたので頭をはたく。
「食うのまだだから」
「止めんなよ。今食わないと唐揚げ冷めちゃうじゃんかよ」
「その前にこの場が冷めるっつーの」
「ふふっ」
可愛らしい笑い声が聞こえて顔を上げると、卓を挟んで目の前にいた女の子が軽く口を押さえていた。目尻が笑っている。俺たちで笑ってくれたんだとしたら、なんかこそばゆい。
「お待たせしましたー」
よく通る声に合わせて座敷中の視線が畳の中央へ向いた。さっき案内してくれた金色の髪のお兄さんが仁王立ちしてわざとらしく咳き込み、周りから黄色い声援が飛ぶ。
「新サー長、緊張してんじゃないのー?」
「お前らうるさいってほんま。えー一年生は初めまして。サークル長をやってます、永田と言います。この度は集まってくれてありがとうな!つか えー、サークル活動のこととか大学生活で不安なこと、近くの先輩掴まえてなんでも聞いちゃってな。ほんでソフドリもあるんで一年生は飲みすぎず! その分我々上回生に飲ませてくれたらええから」
「永田かっこつけんな!」
「やかましいわ! はいみんなそしたらジョッキ持ってー。じゃあ、みんなとの美しい出会いに乾杯!」
宙に漂うジョッキに自分のジョッキを打ち付け終えて、おそるおそる口をつけると、喉から強いアルコールの風味が広がった。
隣で勇太が手をわきわきとさせた。
「ごめん、俺サー長と飲んでくるわー」
「マジ? いきなりすぎん?」
「あの関西弁といい盛り上げ方といい、この人は面白いって俺のセンサーが反応してんだ」
止める間もなく畳の上を立ち上がって背中のロゴが遠くなった。でもって一人残された俺。
仕方なく唐揚げを食べると、口の中のアルコールが中和される気がした。口を動かしながらおそるおそる視線を動かす。
卓は初めましての人ばかりでぎこちない。みんなちらちらと視線を交換し合うばかりでジョッキにばかり手が伸びる。もじもじという擬音はこのためにきっとある。時折笑い声が起きるのは、勇太が旅立っていった奥の卓だけ。
あー気まず! 思い切って視線を上げたらさっき笑ってくれた子と目が合った。
「さっきの会話、勝手に聞いて笑っちゃいました」
「あ、どうも。すみませんうるさくしちゃって」
「いや、仲良さそうでいいなと思って。私理学部なんですけど、学部どこですか?」
「法学部です。さっき隣にいた勇太ってやつも一緒で」
「え、頭いい。私、理学部だからキャンパスは遠いかも。あ、名前はミカって言います。私ね、高校でもバドミントンやってて。大学でも続けたかったんだけど、部活ほど本気じゃなくていいかなと思ってて」
ミカちゃんの視線はちらちらと勇太が行ってしまった卓の方を向いていた。
「勇太君だっけ? いきなり先輩に話しかけにいってすごいね」
「ああ。あいつは本当に人懐っこいんだよね」
「そっかあ。そういう行動力があるの羨ましいなあ」
ミカちゃんは興味の矛先すら隠さない。酒も相まって俺はその場しのぎの相槌ばかりになる。ミカちゃんの表情を確かめるのも億劫になってきてジョッキの飲み口ばかり見る。
「私も向こうの卓行ってみたいなあ……」
「だねー……」
ミカちゃんはきっと俺に興味はない。俺もミカちゃんに興味はない。
でも形だけの会話をやめない。お互いに一人になりたくないから。
あーあ、さっき光ってた女の人、どこいるんだろ。
ふと顔を上げるとミカちゃんの目から光が完全に失われていた。
一瞬の沈黙。困っていると「一年諸君、俺も交ぜてよー」と隣の卓にいた先輩がグラスを持って割り込んできた。話しかけられたミカちゃんの表情がぱっと明るくなって身体ごとそっちを向き、もう一切こちらを見る気配はない。
視界の奥の方で勇太はサークル長と喋っていた。ぼうっと眺めていたら勇太の大きな瞳が俺を捉えて手招きをしてくる。仕方なく向かうと、雑に右の肩を組んできた。
「なに一人でたそがれてんだよ。永田さんと話そうぜ。こいつ、いつも大学でつるんでる幹人ってやつです」
されるがまま軽く頭を下げると柑橘系の甘い匂いがした。
「おー、君が幹人くん。楽しんでる?」
「や、まあはい。ぼちぼち」
「今ずっと一人でおったやん。こういう場所は自分から動かんとやで?」
「いやー、そうっすよね」
永田さんが勇太の方を向く。
「なあこの子ちょっと緊張してる?」
「いやこう見えて繊細なやつなんすよ。でも本当に面白いやつなんで」何かを思いついたように永田さんはにやりと笑った。
「そしたら、幹人くんに緊張が解ける魔法かけたげるわ。俺からの交友の証、受け取って!」
「……え」
ジョッキを反射で受け取った瞬間、耳元が震えた。
「幹人、飲んでなくない!? うぉううぉう!?」
マジか。ぷつぷつと手首から全身へ鳥肌が広がる。
周囲から集まる視線のどれもがニヤついていて生暖かい。助けを求めて隣をちらと見ると、
俺だけに分かるように力なくかすかに勇太が首を横に振った。──仕方ない。飲むしかない。
覚悟を決めて口をつけると、さっきよりも苦い流体が喉に流れ込んできた。なんとか胃の奥の方へ流す。それを見て楽しそうに永田さんが手を叩く。
変わるってこういうことなのか? 俺はこうなりたかったのか? 分からない。
でもジョッキの重力のおかげであと少しで飲み干せそうだった。──なのに。
視界の端っこが明確に光った。照明とかスマホの光とかそういう人工的なものじゃない。
真夜中に見上げる月みたいな、目立たないけどたしかにそこにある光。自分だけが気付ける光。
無視すればよかったのに吸い寄せられてしまった。その正体が知りたい。目を凝らすと、月を覆っていた雲が突風で吹かれたみたいに晴れた。
──あれ、さっき、背中を通りかかった女の人だ。
黒髪のショートヘア。つまんなそうに口元をきゅっと結んで、猫のようにくりっとした瞳は遠くを見ていた。
もしかして俺と同じように浮いているんだろうか——。
なんて考えてたら、束の間、意識の全てをそっちに奪われて握力がザルになった。力を入れ直しても間に合わず、ジョッキの持ち手が手から滑り落ちる。
「あー! 何してんの」
永田さんがさっきより一オクターブ高いトーンで叫んだ。畳の上でこぼれた炭酸がシュワシュワ音を立て、次第に染みが広がる。散乱した氷をあわてて腕でかき集めると、指先が凍みるように痺れた。周りの視線も冷たい。勇太がおしぼりをそこに当てて「怪我はないか?」といたわってくれる。こいつだけはあたたかい。
周りのあらあらあらという反応が痛かった。見ないようにしてテーブルに置かれたジョッキに集めた氷を放り込む。永田さんは「幹人くんごめんな、やりすぎてもうた。こっちは任せてくれていいから、店員さんに追加のおしぼりもらってきてくれるかな」と耳元で囁く。
もう二度と俺はこのサークルに顔を出せないんだろうな、なんて酔った頭でぼんやり思った。
次回 どこか不思議な雰囲気をまとった女の子〈長岡ちな〉との出会い
どんな秘密が隠されているのかの推理など、コメントどしどしお待ちしてます




